深い眠りから目覚めようとしていた。
目が覚める間近の、水中から浮上するような感覚が全身を包む。心地よい浮遊感から、じんわりと重力に圧されていく感じ。「これは夢だ」と夢の中で認識できるのと同じで、眠りながらでも目覚める感覚というものはよく分かった。
泥をすすぐように気だるさが流れ落ち、血の巡る感覚が次第に色濃くなっていく。
その中に、自分ではないモノが混じるのを感じた。熱いようで冷たいようで、何とも奇妙な存在感を放つそれは、五感のどれにも当てはまらない。しいて言うなら気配とでも呼べそうな、ぞわぞわと肌をひりつかせるものだ。身体の内側に、自分以外の何かがいる。気味が悪いはずなのに、不思議と嫌悪感はなかった。
その何かはやがて心臓にたどり着く。しかしそこで終わらず、へばりつく様に心臓を覆ってみせると、少しずつ身を削り取って全身へ行き渡らせ始めた。脈動が起きるごとに頭の先から足の爪先まで、ソレは粉を溶かすように、血を媒介にして満遍なく浸透していく。
始めは、消化だと思った。食物を摂取したときと同じ、砕き、溶かして、栄養として身体の一部にする。
しかし、その得体の知れない何かが削れていくたび。自分という存在も一緒に溶けていく感覚が膨れ上がる。纏わりついたソレが心臓をも蕩けさせていると気づくのに、そう時間は掛からなかった。
これは消化などではない。淘汰だ。その事実に思い至ったとき、自分は悲観するしかなかった。未だ眠りの中にいる身体ではろくな抵抗も出来ず、叫ぶことも許されない。圧倒的絶望が脳を埋め尽くした。
そのとき、声が聞こえた。
囁くようで、叫ぶようで、声音は大きくも小さくも、高くも低くもあり、ひどく聞き取りづらい。ただ、何と呼んでいるかは分かる。
これは名前だ。他ならぬ自分の。
眠りながら死にゆく自分にとって、それは救いの声に他ならなかった。無我夢中で応える。ここにいる、ここにいると、腹の底から叫ぶように、必死に呻いた。たとえ声は出なくとも、やれることはまだある。絶望がなんだというのだ。そんなものに自分は囚われない。今までもそうだったじゃないか。
声は次第に近づいてくる。バラバラだった声音も安定してきた。心臓にある異物などもはやどうでもいい。声、声を拾うのだ。自分の名を呼ぶ、その声を。
やがて声は間近にやってくる。眠る身体では目を開けられないけれど、確かに、自分の傍に来てくれた。
歓喜に胸が震え、絶望が塗り替えられていく。異物もどこかに消えてしまった。その後には、自分の鼓動が変わらずにあることを感じ取れた。
『もう、だいじょうぶ』
声の主は自分を優しく包み込んでくれる。ああ、幸せで胸がいっぱいだ。
『わたしが、ここにいてあげる』
なんと優しく、心地よい声だろう。あなたになら全てを委ねられる。
そうして自分は、再び意識を水の中に沈めていった。
還るように。深く。ふかく。
○ 平日の目覚め。 ○
「最悪だ」
俺は携帯を握りしめて呻いた。
圧倒的多幸感をもたらす二度寝は、ある意味で麻薬である。しでかす度に「二度とやらんぞ」と固く誓いを立てた筈なのに、気がつくとまたしでかしているような。ひとたび身体が味を占めてしまったが最後、俺は一生外せない鎖をつけられてしまったのだろうか。
今日も例によって朝の戦場コースが確定してしまった。寝ぼけ頭に、携帯のアラームを止めたという記憶があるのが恨めしい。無理をすれば間に合う時間というのも絶妙にいやらしかった。
「くそぅ」
悪態をつく暇すら惜しい。とにかくシャワーとハミガキだ。
洗面所に駆け込むと、ひと息に服を脱ぎ、歯ブラシを口に突っ込んで風呂場に飛び込んだ。蒸し暑いこの頃でも冷水シャワーは堪えるが、身体を叱咤するには丁度良い。辛いくらいの方が下手に長引かないし。
全身を洗い流しながら休日の記憶を振り返る。驚くほどつまらない、平平凡凡とした休日だった。土曜日はショッピングモールを冷やかして家事をこなし、日曜日はゲーム三昧。特に日曜日が酷い有様だ、朝飯すらろくに食ってない。雨だから仕方ないって訳でもあるまいに、我ながら無気力過ぎる。
身体と一緒に心も冷えてきたところで切り上げた。バスタオルで手早く身体を拭い、下着とシャツを引っ張り出す。こういう時、クールビズのありがたみが沁みる。
髭を剃りながら鏡越しに自分と対面する。限りなく無為な休日を過ごしたくせに血色は悪くなく、ろくな飯も食ってない割に体調も絶好調だ。やはり、デカいプロジェクトを乗り切ったことで気分が軽くなったおかげだろう。
「よしッ!」
気合いを頬にかまし、居間に戻って鞄を手に取った。荷物を整理しておいた記憶はあるので確認は必要ない。昨日の自分に感
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4 5 6..
9]
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録