――そうなんだ。
目の前の彼女が、さびしそうに言う。
白いワンピースであることは分かるが、それ以外は薄靄のようにはっきりとしない。
あの日、俺は彼女にもう会えないことを伝えた。親の転勤に合わせ、離れた場所に引っ越すことになったからだ。
――りっくん、大丈夫、泣かないで。
澄野利久雄、俺の名前を、彼女はりっくんと呼んだ。この呼び方をするのは、後にも先にも彼女だけだ。
彼女は俺よりも二つ年上だった。彼女はまだ十歳だったが、それでも当時の俺には、ずっと大人に思えた。
目をこすり、泣いてないと強がる。
――今はお別れだけど。また会えるから。十年後に、会えるから。
ほら、指切り……差し出された彼女の手も、記憶の靄の中に隠れ、かろうじて形が分かる程度。
――雪ねえ……。
彼女の名前は確か……六波羅小雪。
◆ ◆ ◆
携帯電話のアラームで、現実へと引き戻された。
午前六時。遠い過去のように、ついひと月前の日常を思い出す。高校に通っていた頃よりも、ずいぶんと早い。しかし、目は冴えていた。
まだ見慣れない天井。山積みになった段ボールを縫うように通りながら、フローリングの寝室を出る。
身だしなみを整える。歯磨き、髭剃り、シャワー。ドライヤーで乾かした髪に、ワックスをつける。いつもよりもおとなしい髪型に……。
クローゼットから、まだ一度も開けていない布袋のジッパーを下ろす。まっさらなスーツ。
着替えて鏡の前に立つと、そこにはスーツを着ているというよりも、着られていると言ってよい、未成年の男がいた。
――まあいいさ、今日が終わったら、次に着るのは三年、四年後だ。
今日は大学の入学式だ。勉強を頑張った甲斐があった。国立の大学に受かり、晴れて初めての一人暮らし。
新年、渋谷駅前の交差点が年明けを祝う群衆でいっぱいになったというニュースを見たことを思い出す。
学部棟で新入生向けの説明を受けた後、広場で見た光景が、まさにそのニュースのようであった。
「部員募集」「サークルメンバー求む」「初心者歓迎」そんな看板があちこちに生えている。どうやら、新入部員の勧誘の集団のようだ。
――困ったな。
大学の敷地から出るためには、この広場を通らなければならない。ということは、あの人ごみの中を通過しなければならないということだ。元来そういったものが苦手な身としては、それは何よりも耐えがたいことであった。
今自分が立っている道路と広場の境目には、黄と黒の縞模様のテープが貼られている。熱心に勧誘していた学生がその線を踏み越えると、彼は慌てて広場の中に戻っていった。勧誘はそれよりも内側でしか行ってはいけないというルールがあるのだろう。
立ち止まっている間に、後ろを歩いていた新入生が追い抜いて行った。広場に入ると、案の定、勧誘の上級生にもみくちゃにされる。
――いなくなるまでやり過ごすか。
そう考え、道路の脇に置かれているベンチに座り、通り過ぎる新入生がもみくちゃにされる様を、呆けて眺めていた。
集団の中に、一際目を惹かれる学生がいた。
立ち並ぶ人々の中の隙間から、時折見える女性。身長が高い。175cm以上はあるだろう。ショートボブで、前髪がやや長く垂れ、左目がかすかに隠れている。丸い顔で、可愛らしさと色気を兼ね備えた表情。厚ぼったい唇は、薄く桃に色付いている。日に当たることを知らないのではないかと思わせる、肌の白さ。今まで見たどんな女性よりも、彼女は美しかった。
白いカッターシャツで、中央に走る黒と赤のストライプを、白いボタンで留めている。第二、第三ボタンははち切れそうなほどであり、その下の乳房の大きさを想像させる。下はデニムのロングパンツで、大きなヒップを引き締めている。どんな男であっても垂涎物の肢体を、薄皮一枚で包んでいるだけという、ひどく危うい服装であった。
――寒そうだな。
第一印象は、素朴で場違いなものであった。だが、次の瞬間から、彼女から視線を外せなくなっていた。無意識の内に、目で追ってしまう。人ごみの中に隠れても、高い身長のおかげで、頭頂がちらりちらりと垣間見える。
彼女は、場慣れした印象から、おそらく新入生ではないだろう。しかし、誰に声をかけるともなく、視線をあちこちに巡らせている。
――何をやっているんだろう。
彼女の行動と目的に興味が移った。誰かを探しているのだろうか。彼女の視線は、周りの人間の顔の間をさまよっているように見える。すぐに次の顔を見るあたり、探しているのは知り合いか、もしくは顔をよく知っている相手か。
しばらく眺めていると、共通点に気付いた。視線の先には常に、もみくちゃにされているスーツ姿の男子学生がいる。
――この大学に、弟でも入学したのだろうか。
そういった推理を頭の中で巡ら
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