「先輩、せんぱーい、起きてくださーい」
――声が聞こえる。
意識が覚醒する。
組んだ腕に乗る、自分の頭の感触。血流が滞り、その辺りだけ触覚が鈍くなっている。
木の香り。
この揺れ方は、馴染みがある。
――自分の机で、寝ているのか。
他人事のように思う。
「あ、先輩、起きましたね。おはようございます」
今、自分が夢ではなく現にいることが分かると、この声の正体も察しがついた。
「んあっ、ああ……桃香か……」
まぶたを開くと、桃と緑の光がちらちらと舞い込む。教室中が、二色のモザイクに彩られていた。
その中、俺のそばに立つ、一人の少女。
天文部の後輩、一年生の星沢桃香だ。
ぱっちりとした黒目。背中の中ほどまで伸びた髪。ころころとした丸顔。俺は彼女を見るたびに、うちの柴犬を思い出す。
彼女は、その印象に違わず、『先輩、先輩』と言いながら、よく俺にじゃれついてくる。いい匂いがするし、心臓に悪い。
「あー、それで、俺は何で……こんなところで……」
いまだ夢の世界から半分帰っていない思考で、眠る前のことを思い出してみる。
「今日は金曜だから、星を見る会で……」
天文部の活動は、毎週金曜日だけだ。日が沈むまで学校に残り、屋上に出て星を眺める。
「それで、他のみんなは?」
教室の中で視線を巡らせるが、桃香以外の部員三人と、顧問である野々島先生の姿が見えない。
「私も分からないんですよね。気付いたらここにいて、先輩と二人っきりで……」
彼女の顔が、紅潮しているように見える。桃色の光のせいだ。いつも以上に肌の色付きがよく見え、艶っぽい。
――おかしい。
今は夜のはずだ。なのに、なぜ窓から光が入るのか。
「何で明るいの?」
当然、桃香が知るはずがない。ただ首を傾げるだけだ。
俺は、すぐ右となりのカーテンに手をかけ、一気に腕を薙いだ。
「何だ、これ」
目の前には、鈴なりに実った桃色の果実が生っていた。窓の外を埋め尽くすように、ハート型の果実が実っていた。
蔓と実の隙間から見える奥には、淡く光る壁が見えた。
これらが、教室に入り込む光の正体のようだった。
「何だ!これ!」
突然現れた非日常に、俺の頭の中はパニックとなった。
植物の隙間に手を入れ、拳を作り、叩く。硬い。大理石のような手触りで、光っているのに冷たかった。
力を込め何度も叩くが、壁はびくともしない。
桃香は、呆然と外を眺めるばかりであった。
「外は!?」
教室を飛び出し、廊下の窓を見る。
同じであった。植物が生い茂り、桃色の果実が下がっている。その奥に、光。
視線を左右に巡らせるが、廊下の最奥まで、ぎっしりと同じ光景であった。
「何なんだよ……」
視線を落とすと、視線の端に自分の腕時計が見えた。
――時間は……。
思考が凍り付いた。長針と短針は、零時を指していた。そして、ゆっくりと、秒針が逆向きに回っていた。
俺の視線に気付き、桃香も自分の腕時計に目を落とす。
息を呑む音が聞こえ、目が驚愕で見開かれるのを見た。
「とにかく、学校から出よう」
そういうと、いまだ固まっている彼女の手首をつかみ、階段へと向かう。
――悪い夢を見ているのか?
あり得ない状況に、自問する。
「先輩……」
しかし、鼓膜を揺らす桃香の声、そして手から伝わる彼女の体温が、これが現実であると確信させる。
――手を。手を……。
そうだ、今、俺は、彼女の手を……。
慌てて、手を離す。
「あっ」
桃香が声を漏らす。心なしか、残念そうに聞こえたのは、俺の願望によるものか。
「ほ、ほら、玄関、着いたぞ……」
取り繕うために、いつもより大きめに声を出す。しかし、その言葉尻は弱弱しいものとなった。
玄関の硝子戸のすぐ先に、あの果実と壁がそびえていたからだ。
「嘘だろ……」
絶望の声を漏らす。
それからしばらくは、逃げたいという衝動に任せ、無我夢中で校舎中を駆けずり回った。しかし、窓も、扉も、屋上までも、漏れることなく壁に覆われていた。
「はぁ……はぁ……」
絶え絶えに息を漏らす。
「ふぅ……」
俺に引っ張られるように走っていた桃香は、額から垂れる汗を、制服の裾でぬぐっていた。
廊下の壁にもたれるように腰を下ろす。視線を上げると、そこには『保健室』と書かれていた。
中から、金属がきしむ音が聞こえる。
「先輩、誰かいるみたいですよ」
桃香も音に気付いたらしい。俺の方を向き、保健室の扉を指さす。俺は荒い息を抑えつつ、静かにうなずいた。
扉に近付き、音を立てないよう、引き戸を右方へずらす。
左目だけで、中の様子を覗く。桃香も、俺の体と扉の間にもぐりこみ、そっと中を伺った。ふわっと、リンスの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「あっ、やぁっ……こういち……く
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