恋する女の子は狼である

 この集落のどこからでも、その丘を見ることができる。
 向こう側をさえぎる小高い丘は、集落の人間にとっては、外の世界からここを隔絶する壁のように思えた。
 狼の丘と呼ばれるそこに関して、この集落の子供は二つの話を聞かされる。
 一つ目は大人から。狼の丘は危険だから、絶対に近づいてはいけない。あそこには名前の通り、狼が現れる。
 二つ目は……

「アマラ、この問題が分かるかい?」
 アマラは隣の席の同級生に突付かれるまで、自分がリュカ先生に話しかけられていることに気付かなかった。
 クラスメートたちの笑い声で、ようやく意識が覚醒する。
「えっ?あ!あっと……」
 慌てて席から立ち上がり、板に書かれた問題を凝視する。
『羊が7頭ずつ1列に並んで歩いており、それが3列ありました。羊は全部で何頭でしょう?』
――7頭が3列だから、ななさんが……
 首をひねって答えを導き出そうとするが、自分がまだ九九の七の段を覚えていないのに気付き、思考を停止させてしまった。
「ふぅ、しょうがないな。放課後、先生と一緒に九九の勉強だな」
 リュカがそういうと、『座っていいぞ』と彼女を着席させた。
 アマラは顔を赤く染めつつ、彼の言葉に従った。うつむく彼女の瞳、そこには決意の光が灯っていた。

「先生」
 放課後、質素な木造校舎が橙色に染め上げられる頃。職員室でリュカとの九九の復習を終えたアマラは、意を決して彼に声をかけた。
「何だい?」
 いつも通りの優しげな、兄を思わせる口調で、彼が答える。
「あの……この後、一緒に来て欲しいところがあるんです!」
 うつむいていた顔を上げ、彼女はいつもとは違う強い口調で言った。彼女はどちらかというと物静かな性格で、あまりはっきりと物を言わない少女である。
 だが、これは彼がすでに予想していたことであった。彼の心中に浮かんだのは驚きではなく『ついに来たか』という言葉であった。
 この集落では、何年も前から男の子が生まれなくなっている。そのせいで、この学校に通っている生徒も、女子のみとなってしまっていた。思春期の女子は、身近にいる年上の男に夢を見る傾向がある。教師はその最たるものだ。
 リュカは、日に日に熱っぽくなってくる生徒たちの視線を感じ取っていた。そして、最近特に強い視線を送っていたのが、今目の前にいるアマラなのである。
――彼女たちが『恋』と思っているのは、年上に対する『憧れ』を勘違いしているにすぎない。だから、大人として、きっちりとそれらを区別しないといけない。
 リュカはそう考えていた。だから、彼は彼女の誘いを受けて、そこでしっかりと説明しないといけないと考えた。
「分かった」

「ちょっと出かけてくる」
 というアマラの言葉に両親は困惑の表情を浮かべたが、彼女の後ろからリュカが姿を現すと、すぐに安堵のものへと変わった。彼は集落の子供たちを一手に引き受けており、大人たちからの信頼が厚い。
「アマラさんは僕がしっかりと見ておきますので」
 そう言って、二人は彼女の家を後にした。
 背筋を伸ばし手にはバスケットを持ち、意気揚々と黄昏を進むアマラ。彼は彼女が何処へ行くのかを知らないので、ついて行くしかない。
 北へ北へと大通りを進む。公園を抜け、市場を抜け、戻ってきた学校も通り越し、更に進む。
 やがて、視界の下半分を、黒緑が覆った。建物がなくなり、木がなくなり、ただ芝生のみが空の宵闇と色を二分している。
 彼女は、申し訳程度の杭と縄を潜り抜け、更に奥へと歩いていってしまった。
「待て、アマラ!そっちは」
 そっちは……狼の丘。

――ねえ、知ってる?
――何を?
――好きな人と両想いになれる方法。
――知らない。
――知りたい?
――……うん。

 アマラは、ある日狼の丘の前で会った見知らぬ少女から教えられたことを、心の中で反芻した。
――好きな人と二人きりで狼の丘を登る。
――手にはバスケット。中には羊毛でできたものとマッチを入れる。
「アマラ!」
 リュカの声が背中から浴びせられるが、彼女は答えずに歩みを止めず進む。
 かつてこの丘が使われていた頃、通り道にしていたであろう硬い土の露出した部分を選び、一歩一歩確かめるように、しかし急いで歩く。やがて坂を登りきり、平坦な場所にたどり着いた。
 視界が開け、下界が見える。彼女にとっては、生まれて初めて見る光景。それと同時に漂ってくる甘ったるい香り。
 彼女の視線の先には、巨大な街が広がっていた。堅牢な石の壁に囲まれた、城塞都市。
 橙と桃色の明かりがそこかしこに灯り、祭りのような雰囲気を擁している。
 中央に位置する一際目立つ城。その姿はまるで陽炎のように滲み、揺らめいていた。
 アマラたち集落で生まれ育った子供には、その存在すら教えられなかった教団信者の汚点、
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