「おい、帰るぞ」
日暮照秋は、教室の窓際一番後ろの席に寄り、声をかけた。
そこには、一人の女生徒が座っていた。
彼女―野村春奈―は、彼の顔を見つめ小さくうなずいた。
机の上に並んでいた教科書やノートを、急いで鞄の中にしまっていく。
彼女の片づけが済むと、照秋は無言で彼女に背中を向け、そそくさと教室を後にした。
春奈は慌てて彼の後をついていく。彼女の艶のある長い黒髪が、ふわりと主の後を追ってなびく。
そんな二人の様子を、三人の女生徒達が、恨めしそうな表情で見つめていた。
「……」
二人で歩く。
照秋がずかずかと一方的に進み、半歩遅れて春奈が小走りで追いかける。
この時間帯、二人が通学路として利用する大通りは、学校帰りと会社帰りの人々でごった返す。
どこにこんなにも多くの人間が押し込められていたのだろうかと、疑問に思うほどの量である。
当然、そんなにも多くの人間がいるならば、可愛い女の子をナンパしようとする悪い輩も存在するわけで。
「あっ、キミ可愛いねー。超タイプなんですけど。ちょっとオレらと遊んでかない?」
そういった悪い虫は、照秋が睨みを効かせて追い払う。
柔道部に所属し、毎日練習に明け暮れている彼は、身長190cmでスポーツ刈りの、がっしりとした筋肉質の男である。おまけに生まれつきの強面。
そんな彼に睨まれたら、大抵の人間は彼女をこれ以上誘うのはやめてしまう。
ナンパ男を追い払ったあと、彼は彼女が自分の学ランの背中をきゅっと摘んでいることに気付いた。
その手がカタカタと小刻みに震えていることを、振動で感じ取る。
彼は自分がまだ必要とされていることにホッとする一方、彼女の男嫌いがまだ治っていないことに不安と悲しみを覚えた。
春奈にとって、頼れる男は、小学生のときから同級生であった彼しかいないのである。
「……」
歩く。
二人の間にあるのは、しんと冷え切った空気を満たす白い息ばかりで、言葉はない。
ただただ無言で、二人は歩く。
一ヶ月前のあの日、春奈が口を閉ざすようになった日から、二人は一緒に行動することが多くなった。
クラス内で、「二人が付き合い始めたのではないか」という噂で持ちきりになった。
春奈が無口になったのは、無口な彼氏、照秋の趣味に合わせるためじゃないかと。
何人ものクラスメートが、彼や彼女に噂の真相を確かめたが、二人とも肯定も否定もしなかった。
「……」
黙ったまま質問者の方をじっと見つめるばかりだったため、何故か聞いた方が謝って引っ込んでしまう始末であった。
二人の足が止まった。
一軒の家の前。表札には「野村」と彫ってある。春奈の家である。
「ありがとう」
玄関の扉に鍵を差込み、中に入る直前、春奈は振り返ってつぶやいた。
「おう、また明日な」
同じくらいの小さな声で、照秋が答える。
二人がまともに会話するのは、一日の内でこの瞬間だけであった。
朝、春奈の家の門前で照秋が待つ。
「おはよう」
照秋のぶっきらぼうなあいさつ。
緊張した面持ちで玄関のドアから出た春奈の顔が、ふっとほころぶ。今日も彼がいるという安心感からくるものである。
そんな彼女の表情を見て、彼は自分の存在価値を見出す。
まだ自分は、必要とされている。
彼は、彼女が昔のような明るくて誰にでも分け隔てなく接する、彼の助けを必要としなくなることを望んでいた。
しかし心の奥底で、彼女が彼を必要としなくなることに恐怖を覚えていた。
彼は今まで一人で生きてきた。
まったく友人がいないわけではない。話しかけられればぶっきらぼうでも短くても返答はするし、そんな彼を悪く言う人はいない。
しかし、本当の意味で誰かと接することはなかった。
心の中で壁を作り、本心を誰にも見せないでいた。
たまった鬱憤は、柔道の練習に打ち込むことで発散した。
これから一生、彼は本当に心を分かち合う人間とは出会わないだろうと思っていた。
だが、一ヶ月前、その予感は打ち砕かれた。
「……」
黙って通学路を歩く。
「……っ!」
春奈がびくりと一度、大きく震えた。
そして彼女は、照秋の学ランの裾を握る。その手は細かく震えていた。
二人の視界の端に映るのは、細い路地への入り口。
そこは春奈が変わってしまった場所。そして、今まで単なる「同じ小中学校の同級生」であった二人の距離が、ほんの少し縮んだ場所。
照秋は黙って前を見据えたまま、背中へと手を回した。
裾を握る彼女の手に、その手を重ねる。
「……!」
一度ぴくんと触れられた手が動いたが、それ以降震えがぴたりと止んだ。
彼女は、彼の「大丈夫だ」というメッセージを、彼の大きくて分厚い手から受け取った。
春奈にとって、授業中は一日の中で最
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