その3 『一時限目から〜』

 「早くいけ」
 拭き終わると彼女はまた素っ気無く言って僕をトイレから追い出した。
 結局1次元目のチャイムが鳴り終わるまで僕は彼女を拭いていた。
 あのチャイムが鳴り響いている最中動いていた唇は、まるで固く閉じた門のように閉じていた。

 障害者用トイレから僕は追い出されると、直ぐ様廊下を走って教室に向かう。
 確か一時限目は教室での数学だった筈だ。
 担当の先生は比較的(担任と比べれば)時間にルーズなタイプだったし、運が良ければ間に合うはずだ。
 しかし、彼女はどうするのだろうか?きっとまだトイレにいるのだろう。
 一緒に出て教室に行けば良かったのに、やはり男と出るのは気まずいのだろうか?だがあんな時間にトイレの周りにいる奴なんていないだろう。
 僕は一瞬トイレに戻って彼女を呼び出そうかと思ったが、下手をして鉄拳が飛ぶかもしれないと思うと自然と足は教室に向かっていった。

 1階から3階まで一気に駆け上がることは意外に疲れるもので、僕は少しだらしなく息を切らしながらも素早く教室に駆け込んだ。
 まだ先生は来ていない様で、他のクラスメイト達はまだ席に座っていても楽しげに談笑をしていた。
 僕は直ぐ様自分の席に着くと、机の中から素早く教科書とノートそして長年使い込んで汚れた筆箱を取り出し、先生が来るのを待った。
 待っている間でもクラスメイトの談笑は止まることを知らなかった。
 むしろ盛り上がっている気さえする。
 別にそれが気になると言うわけでもないが、この盛り上がりの渦の中に混じれないというのは少し疎外感というか孤独を感じる。
 もしも、僕の隣りの席に彼女がいたら...別に談笑ができる間柄と言うわけではないが、疎外感とか孤独なんて僕は一切感じなかっただろう。
 そう思うと、今さっきトイレに戻って彼女を呼び出そうとしなかった自分が情けなく思えた。
 「あれ?姉御は?」
 ふと離れた席から僕に向かって北里が話しかけてきた。
 やはり気に掛けていたのでろう、舎弟というか舎妹の鏡だ。
 「少し遅れるって」
 僕はそう返した。
 どちらにしろ彼女が遅れてくる事だけは確かだろう。
 「...ふーん」
 それを聞いて、納得したような顔をした北里は、席を立って僕のところまで歩いてきた。
 談笑に夢中な他の連中は誰も気にも留めなかった。
 「ねぇ、さっき姉御と教室一緒に出て行ったでしょ?」
 北里は僕を見上げて聞いてきた。
 疑っているというよりは不思議に感じているような感じで、僕が彼女と教室を出たことが意外だったようだ。
 あぁ僕だって意外だと思っているよ。
 「気のせいじゃないか?」
 僕はトボけた。
 何かトボける必要があるのかと言う話だが、彼女の妹分でもある北里にはそんな知られたくなかった。
 それが何故だかはわからない
 「嘘、だって私ちゃんと見たよ」
 彼女はそう自慢げに言った。
 そうか、見られていたかとなるとこれ以上トボけても無駄だろう。
 無駄な足掻きはやめたほうが良い。
 そんなことをやると大体最後は酷い事になる。
 「あぁ、出て行ったけどそれがどうかしたかい?」
 そう僕は座りながらも彼女を見下ろしながら答えた。
 結構な身長差がある
 「いや別に...ただ羨ましいなって...」
 「羨ましい?何で?」
 まさか、そんなフレーズが出るとは思っていなかった。
 きっと僕はその時、間抜けな顔をして北里に聞いただろうが、北里は真剣な顔をしていた。
 「だって姉御の身体に触れるのは米山君だけじゃない...」
 北里はそう言うと、少し目を下に逸し静かに自分の席に戻っていった。
 今、北里は何て言った?触れるのは僕だけ?今日の北里は変な事を言うなと思った。
 触れるからなんだと言うんだ、それ以上は何も進んでないっていうのに...

そして、北里が戻った数秒後に先生が慌てて教室に入ってきた。
 どうやら配るテキストを職員室に忘れて探していたそうだ。
 それが一度や二度ならまだしも、それを一日に3〜4回しでかすのだから、この『ワーラビット』の彼女は教員の仕事に向いていないのではないかと僕は思った。
 しかも教室に入った瞬間に見事に転んでテキストを散蒔いてしまった。
 これは相当なモノだ。
 結局、生徒の数人が手伝ってテキストを拾い集めてもらい落ち着くと、やっと先生はクラスの名簿を読み上げて出席確認を取る。
 読み上げる間に僕はふっと北里の方を見た。
 今さっきの言葉が頭に残っている。
 北里は名前を呼ばれて明るく返事をしたがそれが終わるとどこか憂鬱そうな顔をした。
 僕は自分の名前が呼ばれるまでしばらく北里の顔を見ていた。
 北里は彼女に対して身体に触れたいと言う思いを持ってるのだろうか?
 今までにそのような機会は一度も無かった
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