第三章 征服者と魔神 その2~三つの課題と三つの願い事

その日は、朝から官僚や武官が右を左に忙しなく往来していた。父帝カリム2世が、巡礼から帰還するのだ。宮廷、ひいては内閣府は、第一級の礼を以て皇帝の凱旋を迎え入れると共に、不在中の政務を建前で報告する必要があった。

「父上、信心深さにも限度があるよ…」シャーザーデは、私室の窓から頬づいて、宮殿へと向かう父を眺めていた。帝都に住まう、物乞いから大商人、少女から老翁までが挙って、「パーディシャー(皇帝)!」と呼び掛け、陳情まがいにすがり付いていくのだ。うんざりした皇子の傍には、従者のように薄桃色の揺らぐ人影が立っていた

「なるほど、お父上はとても偉大なお方であり、貴方様の越えるべき、高く厚い壁なんですね…」魔神は、皇子の耳元で囁いた。「うわっ!」シャーザーデは、熱っぽく湿った吐息の感触に体勢を崩した。「これは失礼を、お怪我はございませんか?」「離して…くれ!」

「ご主人様、貴人は使用人にいちいち恥ずかしがってはいられませんよ?」「君は、僕の使用人でも何でもないだろう!第一、傍仕えが妄りに主人に意見するのかい!」「…これは失礼を…」彼女は、反省したような声色で、煙る手で彼をゆっくり窓辺から下ろした。

「やれやれ、僕は世話役には困ってないよ…でも、君の好意は無下にはしない、何か用事があれば、すぐにでも呼ばせてくれ」シャーザーデは、身体の埃を払うと、魔神に手を翳した。「かしこまりましたわ。ご主人様のご用命、お待ちしております…」彼女は、恭しく一礼すると、煙と化してランプに収まった。

それからしばらくして、部屋のドアを叩く音がした。「殿下、陛下がご到着なされました。父君にご挨拶なされてはいかがでしょうか?」若い女性の声がした。「わかったよ、スレーナ先生!すぐに支度を始めよ」シャーザーデは、部屋の鍵を開けた。女官が数名、そして際立って仕立てのよい服を着た者が入室した。

彼女は、
lt;スレーナ先生
gt;、この皇子の家庭教師であった。「殿下、本日もご機嫌麗しゅうございます」「先生も、朝からお元気でよかった。父上の挨拶には一緒に行くよね?」シャーザーデは満面の笑みで挨拶した。「いいえ。わたくしは飽くまで家庭教師の身、殿下の付き添いなどとても許されることでは…」

「そっかあ…」「お許しください…そうだ!多島海の地理の講義、好評でしたので、また地図を写してきましたの」「えっ?今度はどんな島の話をするんだい!?」「今度は、島一つが森も洞窟もラビュリントス(迷宮)となっている…

あっという間に、正午手前となり、いよいよ皇帝との謁見にシャーザーデは向かう。その足取りは、いつになく陽気であった。(世界には、いろんな景色が、生き物が、神秘があるんだ!父上にも聞いてみようかな…)

彼は、遂に幕僚が列をなす、広間に足を踏み入れた。衛兵は、彼の冠を見るやいなや、声を張り上げ、入室を宣言した。「第一皇子、ダウード・シャーザーデのお成りにございます!」謁見の間が、ゆっくりと大袈裟に開かれた。

「父上!無事のお帰り、三女神の恩寵とパーディシャーの徳に感謝致します」「おお、ダウードか…お主も壮健で何より」興奮気味の皇子、ダウードに対してカリム2世は極めて冷静に、ある意味で冷淡に挨拶した。

「はい…ありがとうございます…」「他には、何か余に告げることはないか?」「ええと…でしたら、巡礼の旅路や村町について聞きたく存じます…」「良かろう。しかしながら、今は内閣の調整や報告の最中で忙しいゆえ、後に回す。下がってよいぞ」「…かしこまりました」

「陛下、畏れながら、我らのことはもとより、殿下に久しぶりにお目見えなさったのですから…積もる話もございましょう?」キャーティプ・ヴェズィール(内務大臣)がそれとなく、ダウードの肩を持った。「大臣、余は父たる前に帝国の導なり…子への贔屓で、政務を滞らせる訳にはいかぬのだ」

「陛下のおっしゃることは尤もでございます!内務大臣、貴殿は些か出過ぎた真似をなさってるぞ」宰相、スンビュル・パシャが続いて叱責した。「然り!」サヴァス・ベイ(元帥)も便乗した。シェイヒュル(大司教)や外務大臣は敢えて無言を貫いた。並みいる閣僚も、シャーザーデへ言外の退室を促した。彼は皇太子であるが、暗に資質を疑われているのだ。

「わたくしめのために…お歴々の手を煩わせました。一旦、退出致します」彼は、ぎこちない笑顔を作り、その場を後にした。(ヴェズィールどもめ、父上もだ!政務やスーフィーのことばかり、僕のことは…)涙をこらえながら、自室へと廊下を走り抜けた。

ダウードはドアを閉めると、ベッドの上、枕に顔をうずめた。まるで、涙を浮かべた顔を他人にみせまいとするように…しかし、彼の泣き顔を見るものはいないはず。「ご主人様、如何なさったのですか?」ある
[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33