老爺と〈黒山羊〉

多島海に面した都市国家。東西の文化・宗教の影響を受けていたものの、多くの国民は古き神〈バッカス〉を厚く信仰していた。バッカス女神の信仰は、以前は西から来た帝国のもと、主神教にとって代わられ、一時は廃れていた。古き教えを復活させたのは、謎めいた魔女〈国母〉とその夫たる大祭司であった。彼女らは、都市を独立させると、すぐさま娘を女王として立てた後、自らは宗教的指導者となり政を退いた。

女王は、この国を富ませ、また守り抜いた。人々は彼女を敬愛し、またその両親たる司祭たちの教えを守っていた。女王は魔物であった。山羊のような角、毛皮に包まれた下半身、はだしの蹄。しかし、それを咎めるものがいようか。民は、ほとんど魔物とインキュバスだ。

「「「女王陛下、王配殿下、大祭司猊下、そして我らが〈お母さま〉万歳!」」」国民は異口同音に彼女らを祝した。アゴラを麓に臨む、そのバッカス神殿の入り口には、国民に手を振る女王、その伴侶、父たる大祭司がいた。国母は産後の肥立ちが悪く、残念ながら欠席となった。

三人は、国民の歓声を背後に、神殿へと入った。バッカスの恩寵か、その柱はブドウのようなつる植物が巻き付いていた。既に列席していた、神官達、国母に連なるマイナデス、その婿らが彼女らを出迎えた。「ご機嫌麗しゅう。女王陛下…」神官の一人が進み出て言った。その両手に抱えるは、ブドウやオリーブ、小麦を載せた木の膳であった。

「苦しゅうない。では、挨拶もそこそこに我らが女神にこの恵みをお返し奉らん!」女王は膳を受け取り、膝を屈し、バッカス女神像の目前に奉納した。全員がそれに続いて、女神に祈りを捧げた。「本年の豊作、勿体なき幸せにございます!我らの始祖よ!御身がこれら最初の一口をお召し上がりにならんことを!」

いかなる御業か。その言葉が終ると、膳の上の神餞はすべてなくなっていた。呼応するように、神殿に広がる蔦は光り輝き、見たこともない花を咲かせた。
「有り難き幸せ!また明年も我らを見守り賜らん!」女王は恭しく祝詞を述べた。「「「バッカス女神に栄光あれ!」」」神官やマイナデスがそれに続いた。

「この場にいらっしゃらず大変残念であるが、お母さまが今年は欠席している。そこで、祭りの開催を大祭司様にお任せ致したい!」女王は立ち上がり、自分の左隣にいる老人を示した。老人は一礼した後、しかし沈黙した。場の空気が変わった。女王は訝しんだ。王配公は妻に目配せした。この場の全員が一人の老爺に視線を向けた。

その時、「ねえもう終わった〜?」どこからかあどけない声がした。それは魔物娘であった。サテュロスという半人半山羊の種族である。老人はそちらに顔を向けた。「あっ、じいじだこんばんは!」少女は無邪気に大祭司に挨拶した。場の空気は凍り付いた。マイナデスの一人が声なき声で叫んだ。その顔は件の少女によく似ていた。そして老人はその娘のもとに足を向けた。

「おお!大きゅうなったの!」老人は孫の頭を撫でた。少女はくすぐたっげに身をよじった。老爺はひとしきり撫で終えると、子供の頭から手を放し場のほかの者たちに振り返った。「おほん。この娘の言う通りじゃ、バッカス女神への儀は恙なく終わった。もう、無礼講でよかろ」大祭司は暢気な口調で言った。言葉ではなく仕草から場の動揺が知れた。

「父う…猊下!何をおっしゃっているのですか!」女王は大声を出した。「まあ、おぬしの気持ちもわからんではない…」大祭司は答えた。「しかし、今年はバアさんが出席していないんじゃ。バアさんと祭りに出るのが何より楽しみじゃというに、これじゃあ出る意味が無かろ?」

女王は呆気にとられた。今度はその隣から、王配公が進み出て言った。「恐れながら、猊下…」「お前には意見求めとらんわ!儂から愛娘を奪いおってからに!」「うえ〜ん、じいじこわいよ〜!」祖父の見たこともない剣幕に孫娘は泣き出した!「すまん!じいが怖がらせてしまったのう!」大祭司は、孫を慰めてから、王配に向き直った。「お前もこの娘に謝らんか!もとはと言えば、お前が儂に意見するからじゃ!」

「黙って聞いていれば、父上、我が夫のことをそれ以上貶めるのは実の親と言えど見過ごせませんぞ!」女王は王配をかばった。「アグライアー!儂に逆らうてか!そもそも、王配とは言ってしまえば、女王の私生活と外交を支える従者だと結婚のときに話したであろう!だのに、こんな妻の背に庇われてばかりの怯夫なんぞ連れてきおってからに!」「あ〜ん!」

場は完全なカオスに落ちた。その時、正に鶴の一声がその場に響いた。(((まったく、親類縁者がそろうといつもこれですか…)))否、それは実際に音として聞こえたわけではなかった。神殿内のすべての者の頭に木霊しているのだ。

「バアさん!」「「「お母さま!」」」「「「〈お母
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