『地誌異類恋婚譚』より「樹精乃章、桃娘乃段」(ドリアード)後編

「蓮さん、おはよう」「あ、おはようございます、阮さん」朝市にて、果物屋に恰幅のよい男が挨拶する。「今日も朝から、こう暑くっちゃ気が滅入って仕方ねえよな?」「はい」

 世間話を終え、蓮は阮に数個の果物を巾着に入れて渡した。「早めにお召し上がりください」「じゃあな、妹ちゃんにもよろしく伝えとくれ」「かしこまりました」

 果物屋の男は、旗指物を見た。「蓮水果」蓮…Lian、レン…俺は何者なんだ?レン…煉、廉…誰も俺を知らない。俺自身さえ。

 彼は、その日も黙々と果物を売った。初めは、桃を安く仕入れる先を探していた。住み込みで、果物屋で働いた。本店に間借りし、今では露店を任される。薄給だが、衣食住、何より"桃"が手に入る。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「おい、帰ったぞ。美琳」彼は、果物屋の納屋の戸を叩いた。「ごほっ…に、兄さん。待って…今開けるから」足音が近づく、そして桃の香りも…

 「兄さん、お帰りなさい…」「ただいま」美琳は、兄に身体にを預けるように抱きついた。蓮は、彼女を抱き締め返した。少し力を込めれば、すぐに霧消してしまいそうな細い身体を。髪からは、薄く甘い香りが漂う。

 「無理するな…ほら、肩貸してやる」「…すみません」蓮は、美琳を助け蒲団まで運んだ。「ほら…桃だ。今日のはすごいぞ、氷室で凍らせた奴でな。暑かったろう?」「…ありがとう」

 桃娘とは、桃だけを食べるのだ。肉も、麦も、米も、食べることはできない。そう躾られたのだ。香りや、体液の純度が落ちるからだ。ヒトの形をした家畜だ。否、畜生ですらない、見て味わって、動くことも許されぬ。果実だろうか。

 蓮は、存在を知っていた。だが、美琳と暮らして、どれだけおぞましいかを知った。どんな食べ物、麦粥も重湯も喉を通らぬ。腹が減れど、桃しか受け付けぬ。米すら満足に手に入れられぬ戦乱の世に、桃など。だが、妹を飢えさせることに比ぶれば、取り戻したはずの家族を再び失うよりは、まだしも安い。

 「…ふぅ」息さえも甘い、身体中を蝕む甘味だ。「ひとごこちついたか?」「…はい」「寝てろ…」蓮は、美琳を撫でながら、毛布をかけた。

 「…あの」「うん?」離れようとする兄を、妹は袖口を掴み、引き留めた。「…今日、怖かったんです。兄さんが…兄さんがどこかに行ってしまう気がして…」「そうか…」

 蓮は、美琳の横に寝転んだ。「眠るまで、こうしてやる」「…ありがとう」「…覚えてないかもしれんが、俺は昔もこうして、添い寝してやったんだ」「そうなんですか…」「ああ…」

 兄は語る。妹が生まれて、祖父母は付きっきり、両親は野良仕事で家にいない。つまらない、寂しいと思った。赤ん坊に文句を言おうと思った。だが、そいつはきょとんとして、俺の顔を触って、そんで笑いやがんだ。

 「ふふ…そうだったんですか」「ああ…俺の大切な…俺の…」彼は、疲労や暑さからか、微睡みに入った。「…シャオリン…いきてて…よかった」「…」

 美琳は、上体を起こした。自分の毛布を兄にかけると、頬に口づけた。「…あなたは兄、どうやっても、わたしは妹…」彼女は、桃娘になった日を思い出した。今より痩せこけて、背も低かった。

 首筋に残る痕をなぞる。呪具によって、美琳の記憶は曖昧だ。この男は、兄らしい。そんな気もする。両親や祖父母の名も、その風貌も一致する。だが、兄はない。

 「どうして、あなたは兄さんなの?」「…ぐ〜」問いかけに蓮は答えない。そっと、顔に触れた。この輪郭、確かに彼が言った通り、赤ん坊の頃も触ったような。

 そのまま、首を鎖骨を、分厚い胸板をなぞった。「…どうして、こんなに好みなの?」だが、兄と言うより、"男"
であった。"女"は、桃娘は、蓮の声を、その瞳を見るだけだけで疼く。

 「…ごほっ、ごほほ」美琳は長くない。むしろ、桃しか食わぬ自分が今日までよくやってこれた。「兄さんじゃなければ…」せめて、一夜でも証を残したい。それも叶わない。彼女は、泪を流した。口元に垂れたそれは、気持ちに反して甘かった…

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「うん…」蓮は、壁の隙間から差し込む朝日に目を覚ました。「…寝ちまってたか」彼は、自分にかかる毛布を見た。「…風邪引いてねえだろうな?」妹に問いかける。

 「…」「…へ、まだ寝て…」蓮は、異変に意識を覚醒させた。「…すまん」彼は、口に手を近づけた。胸に耳寄せた。「…嘘だろ?」兄は、妹の肩を揺すった。

 「なあ…冗談はやめろよ」「…」いつもよりなお白く、美しい顔をしていた。「…シャオリン、兄より先に逝くバカがあるかよ…」蓮は、大粒の涙を流した。それは、塩辛かった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「うん?」「おお、起きよったか」美琳は頬を叩かれる感覚に目を覚ました。「…すみませ
[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33