前編

「カサッ」


ここはとある港街からやや外れたところに繁る森。空は鬱蒼と繁る木々に隠され辺りは薄暗く、所々零れた陽が光線の如く射し込む程度。魔物が出ると言われており街の人間はほとんど寄り付かない。
そんな場所を一人の男が歩いてゆく。

「カサッ」

よく見れば男はまだ若く、青年と呼べる年のようである。しかしその顔に生気は無く、足取りはおぼつかない。まるで一瞬のうちに10年程老いてしまったような、そんな雰囲気を漂わせていた。
彼はもはや自分がどうしてこんな所に来たのかさえ、分からなくなりかけていた。しかし彼は歩く。走る程の体力はもう既に残っていない。どれだけ進んだところで行き着く場所など無い。だが、進まねばならなかった。
…奴の思い通りにさせてなるものか…
怨嗟のみが、その体を突き動かす。



「哀れな子羊に神の救済を」
ついに歩くだけの力も尽き、今にもその膝を地に着こうというときに、その声は聞こえた。

いつからそこに居たのか。不意に投げ掛けられた声に後ろを振り返ると、其処には黒い服の女が立っていた。


「どうやらお困りの様子、私でよろしければ話し相手になりたいのですが如何でしょう?」
優しげな微笑みを浮かべて彼女は宣う。

―驚く程綺麗な女性だった。森の枝葉の隙間から零れる僅かな光を集めてきらきらと輝く銀色の髪は腰まで伸び、木々の間を時折吹き抜ける風を受けてさらさらと揺れている。優しさとどこか知性も感じさせる顔立ちはまだ若干の幼さが残るものの、ぞっとするほど整っている。その、まだ少女と呼んでも差し障り無い容貌とは裏腹に、その身に纏った黒装束の胸元は豊かに押し上げられていた。青年の短いようで長かったその人生を振り返ってみても、これ程の美人に声を掛けられたことなど記憶に無い。しかし…



…正直怪し過ぎた。
彼女が着ている黒ずくめの服は修道衣のように見えるが彼が今まで見てきたものとはやや様相が異なる。教会のある街からはかなり離れているし、一人でこんな森の中に居るのも変だ…

だが、男は語り始めた。
絶望に打ちひしがれた彼の心が、目の前の不審者にすら救いを求めたのか。はたまた彼女の慈愛に満ちた表情の裏に見え隠れする、得体の知れない力に恐れを為したからなのか。しかし彼女の正体が何であったにしろ、自分の置かれた状況はこれ以上悪くなりようが無いと思えた。ならば…




この港街は海運の要衝であり、陸海双方から様々な物品が集まる。青年が受けた仕事はこの街までとある品を届ける事だった。単なる運送にしては高めの報酬、与えられた期限はやや厳しかったが最短のルートをとれば十分間に合う範囲である。商人として独立してからまだ日の浅い彼には仕事を選り好みしている余裕などあるはずも無く、一も二もなくその話に飛び付いた。

結果は…この男の様子から推して知るべしといったところか。不測の事態というのは起こるもので、とある街で足止めを食らい、納期に遅れ物品は引き取って貰えず、さらにその物品の中から禁制の品が見つかった事で法外な罰金を課せられた。
自分の迂闊さを、或いは不運を呪うも時は既に遅く、破産した彼の身柄はとある商館に引き渡された。そこでふと一人の男の顔を見たとき、彼は一つの可能性に思い至り、発狂する。



「其処にはあの男がいました。私にその仕事を紹介した男が…」
自分が嵌められたのだと理解したとき、彼は怒りで我を忘れその男に掴みかかろうとした。当然回りにいた人間に取り押さえられたが、勢いにまかせて2、3人を殴り飛ばし外へと飛び出したのだ。そして行く宛も無いままがむしゃらに逃げ続け今に至るという訳である…


「…恐らく私には追跡の術式が掛けられています。何れ追手が私を捕らえにやって来るでしょう。」青年は諦感の表情で続けた。「奴等は外道です。私と一緒に居るところを見られればきっと貴女にも良くないことが起きる。すぐに此処を離れた方がいい。」
そして彼女の瞳を見て告げる。
「感謝します、こんな身の上を聞いて頂いて。お陰で少し気持ちの整理がつきました。私は生涯「彼」を恨み呪い続けますが、これは私の未熟さが招んぶっ!?」

最後まで言うことは許されなかった。彼女が青年を抱き寄せ、その大きな胸で彼の口を塞いだためだ。突然の事に混乱する彼の精神を絡め捕るかのような声で彼女は囁く。
「怨みなさい、全ての悪意を。呪いなさい、貴方に不幸をもたらした人間を。貴方は悪くないのです。無力を罪だと謳うこの世界こそが、悪なのですから…。」
―それは彼の知る教団の聖職者ならば絶対に口にしないであろう言葉。神の創りしこの世界を否定する言葉。
しかし彼女の言葉はそれ自体が何か特別な力を持っているかのように、驚くほどすんなりと彼の脳に染
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