長女、あるいは春風のこと

季節は梅雨ーー。立ち込める雲は蓋を思わせた。

浪人生の和冬(かずと)は一つ、ため息をついた。帰ってきた模試の成績がよろしくない。
彼は一人駅のホーム、ベンチに座っていた。
駅のホームはガランーー、としている。

通過列車の風が当たる。世界から置いてきぼりにされるような錯覚を覚えて、彼は手を伸ばしそうになってしまう。
ふと、列車の窓の誰かと目があった気がした。空を見る。灰色の景色は変わらない。

(こんな時間がいつまで続くのだろう)
鬱屈とした感情に、彼は足元から焼かれているような感覚を抱いた。弱火でじっくり。骨の髄まで、グズグズに蕩かされるような……。
和冬は思わず頭を振る。

(イケない。こんな事ばかり考えているから、成績だって上がらない……)
「列車が参ります。ご注意ください」駅のアナウンスが、まるで別の世界の言語のように聞こえる。
どこか別の世界に行けるのならーー。そんな事を考えて、彼は一つ自嘲気味に笑った。

ーーその時だった。

「ごきげんよう」
風が吹いた。花のーー香りがした。

顔を上げた和冬の目に飛び込んできたのは、ゴスロリ姿の女性。
彼女の奇特なファッションに和冬は目を丸くする。いやーー、彼が驚いたのはそれだけではない。彼女は見た事のないほどの美人だった。

二十代半ばに見える可愛らしい顔立ち。
灰色髪の左右のおさげがクルクル巻いて肩まで垂れている。ーー縦ロールと言ったと思う。小さな黒いシルクハットが、その左の結び目にチョコナンと乗っている。和冬よりも背は高い。
彼女の小動物のような可愛らしい瞳が、和冬を見つめてきていた。

和冬が固まっていると、彼女が微笑んだ。
「浮かない顔ね。何か悩み事があれば、お姉さんに聞かせてもらえるかしら?」
「宗教の勧誘ならお断りです」
自分でも驚くほどにスルッとその言葉が出た。
彼女の雰囲気は、そう。人間離れ、というか浮世離れしたものがあった。
だから、そういった方面の関係者か、とも思ったのだ。

しかし、帰ってきた言葉に彼は驚く。
「魔王ならいるわよ」「え?」
「なんてね」と彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
神がいる、ではなく、魔王がいるときたか……。
和冬は何とはなしに、彼女に興味を持った。それが彼女の手だと言うのなら、手のひらで弄ばれていることになる。

だが、それでもいい、と思えてもしまった。初対面の相手に、それは不思議な感覚だった。
「あなた、面白いこと言いますね」
「そう?」彼女は春の花のように微笑んでいる。

上品で物静かだが、彼女の仕草は可愛らしい。
彼女が和冬の隣に座る。距離が近い。周りに人はいないが、気恥ずかしい。
ーー触れた肩から彼女の柔らかさを感じる。
甘い香りがーー鼻孔に染み込んでくる。痺れるような、目眩がした。

「ねぇ、お茶しないかしら」
彼女の唐突な申し出に、彼は身を竦ませた。
(フゥん。……やっぱり宗教の勧誘か。それともキャッチか。ついて行けば、黒服の男達が待っているのは間違いないな)

「とても魅力的なお誘いですが、結構です」
「そんなこと言わずに」
(え?)
和冬の腕に、彼女の胸が押し付けられた。デカいーー、ではなく。
彼女は実力行使に出てきた。色仕掛け。だが、切実な問題がある。

「力強ッ!?」
「あら、ハジメての娘(こ)にそんな事を言ってはイケないわよ」
彼女は相変わらず微笑んでいるが、その微笑みは肉食獣のもののようにも見えてしまう。
「じゃあ、オッケーという事で」
「ちょっと、待ッ」
和冬は強引に彼女に連行されていく。
ここで大声を出して助けを求めることも出来たが、それは流石に恥ずかしい。和冬は大人しく彼女について行くことにした。
それに、どうしてか……。和冬には彼女が悪い人だとは思えなかった。

しかし、誰かに助けを求めようにも、そもそもーー昼間の駅のホームだと言うのにーーそこには誰もいない。
まるで、不思議な風によって、切り取られたかのようにーー。



「へぇ、和冬くんは予備校生なの」
彼女はケーキを口に運びながら言った。
「はい……浪人中です」
彼女に連れていかれたのは喫茶店。

和冬が席に着くと、彼女はその隣に座った。
それは事実、和冬を逃さないための位置どりだったが、やって来たのは黒服の男ではなく、大量のスイーツだった。

テーブルには、色取り取りのケーキ、パフェ、ドーナッツ、クッキー、フルーツサンドーーなどのスイーツが所狭しと置かれている。ゴスロリ女はそれを次から次へと口に運んでいく。
細身の体の割にーーよく食べる。
見ているだけで胸焼けする量の糖分が、見惚れるような手つきで彼女の口に消えて行く。その様子を見ていると、和冬はまるでーー自分が貴族の令嬢のお供をしている気分にもなった。

店内には茶色の光沢が広がっている。
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