コンコン――と、咳が聞こえた。
「大丈夫か、お妙」
「うん、大丈夫だよ、兄ちゃん」
ボロ長屋の一部屋で、粗末な着物の青年が、薄っぺらい煎餅布団で寝る少女を心配そうに見つめていた。部屋に火の気はない。囲炉裏なんてものはもちろん、火鉢のようなものもない。寒さを防ぐものと云ったら、使い古して擦り切れた古着くらい。その古着だって、今も使っているものだ。
兵衛は最低限の着物だけで、他は全部妹の蒲団に入れてやっていた。彼女が断っても、兵衛は押しつけた。まだ、春は遠い。
兵衛の妹が流行病に倒れたのは去年の暮れだった。
仲睦まじい兄妹だった彼らは、貧乏にも負けずに懸命に働いていた。二人で頑張ればいつかきっと暮らしは良くなる。両親がいなくともお互いさえいれば何とかなる。そう思って頑張ってきた。
だと言うのに、日頃の疲れが溜まっていたお妙は、軽い流行病で倒れてしまった。それは十分な栄養と休養を取っていればすぐに治るものだったのだが、病を隠して働いた彼女はこじらせてしまった。それ以来、もう一月(ひとつき)は床に臥せっている。
「ごめんよぉ、兄ちゃん、全然よくならなくって……」
「お前が悪いんじゃねぇよ、俺の稼ぎが悪いから……」
「そんなことない」
「そんなことある」
「…………」
コンコンと、再び乾いた咳。
お妙は開こうとした口を開くことが出来なかった。兵衛は自分を責めていた。お妙がどれだけ彼のせいではないと云い聞かせても、聞いてはくれなかった。
普段だったら勝気に兄を云いくるめられる彼女だったが、身体の方も口の方も云うことを聞いてくれない。
そんな彼女を見て、兵衛はやはり自分を責めるのであった。
「じゃあ、ちょっと稼いでくる。お前はちゃんと寝てろよ」
「あ……、うん、いってらっしゃい。 気をつけて」
「おう」
くたびれた笑顔を見せる彼を、お妙はいつも祈るような気持ちで見送る。
彼はお妙の分も働いていた。それどころか、お妙に栄養のあるものを食べさせようと、三人分くらいは働いていた。しかし、日雇いの賃金はたかが知れていて、働けば働くほど疲労が溜まっていくだけで、金の方はとんと溜まらなかった。
横になっていれば、良くなることはなくとも悪化することだけはないお妙は、日ごとにやつれていく兵衛に、自分よりも先に彼が死んでしまうのではないかと、いつも気が気ではない。彼が帰って来ると、今日が今生の別れとならなかったことを知って、いつも胸をなでおろす。
……私が死んじまえば、兄ちゃんは無理をやめるだろうか。
そんなことを考えてしまう。
しかし、粗末な煎餅布団の中で、ゆるゆると首を振る。
そんなことをすれば、兄ちゃんはきっと私の後を追って死んでしまう。それじゃあ意味がない。私が死んでも、兄ちゃんには私の分まで生きて幸せになって欲しい。
彼女はそう願うが、もしもお妙が死んでしまえば、兵衛が死を選んでしまうことを知っていた。だって、それは自分もいっしょなのだから。
お妙は兄である兵衛を好いていた。
――彼らは血のつながらない兄妹だった。
お妙は兵衛がそれを隠していることを知っていた。
きっと彼も自分を好いているだろう。お妙はそう思うが、それを聞くことは出来なかった。何せ、自分たちの血がつながっていないことを、彼は隠している。と云うことは、彼はお妙と男女の一線を越えるつもりはないと云うことだ。
それでも彼は嫁を持ってはいなかった。
――きっと、自分がいるからだ。
嫁が出来れば、お妙の肩身が狭くなる。
それならお妙も嫁に出ればいいのだが、お妙は兵衛から離れたくなかったし、彼に嫁が出来ることも嫌だった。自分が彼の妻になりたかった。お妙は自分から嫁に出るとは云えず、彼の方からも、お妙に嫁入りの話を持ち出してくることもなかった。
兵衛の気持ちを知るのが怖かった。拒絶されて、仲の良い兄妹と云う関係を壊したくはなかった。
しかし、こうして彼に迷惑をかけ、このままずるずると病んで死んでしまうのだったら、告白して、拒絶されていれば良かった、とも思ってしまう。
お妙の目じりに泪が溜まる。
「いかんなぁ、もう、私は気が弱くなってる……」
その言葉とともに、再び乾いた咳が、咽喉から出てくるのであった。
――コン、コンと。
◆
日雇いの仕事を終えた兵衛は、トボトボ道を歩く。
夕暮れの道。空はだんだんに染まって、仄青い空には一番星が輝いている。赤い道に、寒さに身を竦める、独りぼっちの影法師が、物悲しく長く伸びていた。
やはりあまり賃金を貰えはしなかった。
兵衛はため息を吐いてしまう。
せめて卵を買えるくらいの金を溜めたかった。しかし、日々の食事もあって、金は一向に溜ま
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録