馬鹿げた噂なんて信じていやしなかった。
それに、僕はそこまでこの世界に絶望していたとも思ってはいなかった。
でも、僕は人並みに傷ついて、人並みには絶望していたらしかった。
でも、まさかそれがーー、狂気の扉を開けるほどの切符になっていたとは、僕じゃなくとも思っていなかったには違いない。
ひょんなことから僕はいじめの対象になった。
何をしてそうなったかだなんて、思い出すだけでも馬鹿らしすぎる。落ちていた消しゴムを拾って、その持ち主に落ちていたよと返してあげただけ。それがクラスで一番の美少女でも、いじめっ子でも、それとも、それまでイジメられていた子であっても、それは変わらなかっただろう。
その子に消しゴムを拾ってあげた僕は、イジメの対象になった。
その前後に、何か「生意気だ」と言われるような出来事はあったとは思うのだけれども、結局イジメの対象がなんだっていい彼らは、僕を標的にしたらしかった。
僕はどうして新宿駅に来たのか分からなかった。
分からなくて、どこをどうさまよったのか、僕はこの奇妙な改札口にたどり着いていた。
「子供一名、どうぞ」
「えっと……お金は……」
「大丈夫、いりません。ナカで支払ってもらうから」
美人であるようには見えるけれども、真っ黒な制服に、口元を隠した女の駅員さんにそう言われて、僕はホームに案内された。
駅のホームは夜だった。
夜というか、……紫?
そんな不思議な色の闇に閉ざされた駅の構内には、まるで猫の目のように光る、小さな灯し火がふらふらと浮いていた。
まるで御伽噺のような風景。
幻想的だけれども、どこか仄暗さを孕んだそこに、まるでうなり声のような汽笛を鳴らした列車が走りこんで来た。
それも、まるで童話の世界だった。
蒸気機関車を思わせる古い列車。その前面は、まるで悪魔のような角を生やして、不思議な形をしていた。煙突なんてないのに蒸気(いき)を吐いて、それは、本当に呼吸をしているようだった。
列車は止まり、僕の前に一つの扉が現れた。
扉は開いているというのに、その先はまるで、底の見えない井戸を覗き込んでいるように真っ暗だった。
ぬぅっと、現れた人影に、
「ひゃっ」
と僕は小さな悲鳴をあげてしまっていた。
そこにいたのは、さっきの駅員さんと同じような、真っ黒い制服を着た女性。彼女も美人のようだけれども、やっぱり口元を隠していた。髪の毛の隙間から見える薄紫の瞳が、井戸の底の宝石のように、妖しい輝きを放っていた。
「おいで」
と彼女は言った。
僕は彼女に誘われるままに列車にの乗り込んだ。
列車の中は、案外普通だった。
上等な向かい合わせの座椅子がいくつも並んで、ランプの明かりが煌めいていた。
僕は案内された椅子に座ると、まるで沈み込んでいくようなその柔らかさに驚いた。
ぷにぷにとして、紫の革が張られているその心地よさに、いつしか僕はうとうとし始めていた。
窓の外には紫色の闇が果てしなく続いていて、時折ひらめく猫の目のような輝きが、まるで宇宙を旅しているような気持ちにさせてきた。
ーーいつしか僕は眠っていた。
目を覚ませば、柔らかいものに触れた。
すべすべつやつやとして気持ち良いそれは、いつまでも触っていたくなるようなものだった。押し込めばむちむちとした適度な弾力があって、まるで上等なハムをつついているような気がした。
目を開けば、僕はそれを枕にしていたことに気がついた。
上を向けば、二つの大きなふくらみの向こうから声がした。
「あ、起きた」
しばらく僕はそれが何か分からなかったけれども、ハッと自分が膝枕をされていることに気がついて、思わず起きあがったらそのふくらみにぶつかって、再びむちむちとした膝枕に逆戻りすることになった。
ーーくすくす。
と笑い声が降ってきた。
それは、やっぱり女の人の声だった。僕は勿体無い気もしたけれど、そろそろとおっぱいと太ももの間をすり抜けて、普通に座ることにした。
「そのまま寝ていればよかったのに。私の膝枕、気持ち良くない? それとも、君はおっぱい枕の方が良い?」
女の人は、そんなことを言って笑っているようだった。
でも、彼女の顔は、無表情で、顔を見れば、本当に彼女が喋っているのかが分からなるほどだった。
彼女も、駅員さんや車掌さんのように、真っ黒い服を着て、口元を隠していた。
いや、その服は黒じゃなかった。黒っぽいーー紫だった。まるで、窓の外に広がっている闇のような……。
でも、そんな服の違いなんてどうでも良くなるおかしなところが彼女にはあった。
彼女の頭には角が生えていた。
尾があった。
手のついた羽があった。
彼女はーー
「悪魔……」
だった。
[3]
次へ
[7]
TOP[0]
投票 [*]
感想