「フン、ぐぬぬ……」
田川恵子は一人、自室で何やらトイレのスッポンのようなものを自らの胸に当て、力一杯に引っ張っていた。十人並みの顔を真っ赤にさせて、その顔は今や、仁王様もかくやであった。彼女の周りには開かれたままの雑誌が転がっている。
それらは文言すら違えど一様に、
豊胸やら、バストアップやら、胸を膨らませる特集が組まれている。しかしそれだけでもなく、ちっぱいなんて怖くない、貧乳はステータスだ、ない胸を張ろう、あんなもの重たいだけだ、肩こりの辛さ、などなど、自己啓発や、巨乳のデメリットを述べた本や雑誌まで散らかっていた。
他にも数々の豊胸器具。冷蔵庫には各種のサプリが収められている。
何を隠そう、彼女は貧乳であった。
東に豊胸に役立つ牛乳あると聞けば絞りに行き、西に女性ホルモンを高めるマッサージがあると聞けば受けにいき、南に貧乳をなじる者がいれば殴りにいき、北に貧乳を讃える者がいれば馬鹿にするのかと罵りにいき、といった具合には、彼女はちっぱいを拗らせていた。
しかし、それも仕方のない話かもしれない。
今までに彼女が付き合った男性は路上でたわわな胸を見つければ目を惹かれ(それが彼女を愛していないということには繋がらないのだが)、癇癪を起こした彼女と喧嘩になって別れるということを繰り返していた。
もっとも、最後に付き合った男性は本気で彼女のちっぱいを愛で、巨乳には目もくれないという筋金入りの益荒男(ますらお)であったのだが、彼女はそのコンプレックスから、疑心暗鬼で癇癪を起こし、別れたばかりだった。今考えれば勿体無いな、とは思う。恵子も彼のことを嫌いになって別れたわけではないのだ。
ともあれ、
そんな、彼女の貧乳(ひんぬー)は、歴史のあるちっぱいであった。
「くっそう。これも効かないじゃない」
彼女はキュポンと自分の胸からスッポンを外すと、壁に叩きつけた。
ぽよん、とゴム部分が柔らかな音を立て、それもまた彼女を苛立たせる。
「何が母性の象徴よ。何が包容力がある、よ。……くっそう」
彼女は泣きべそをかきそうな顔を一瞬すると、すぐに覇気を取り戻してパンツ一丁の姿で台所に向かう。冷蔵庫を勢いよく開け放ち、腰に手を当てつつ豪快に牛乳を一気飲みし、そして腹を壊した。
ゲソっと頬をコケさせて、彼女はトイレから出てくると、豊胸に良いと言われた二プレスを貼り付け、出社の支度をする。シャツを着て、ワイシャツを着て、スカートをはいて上着を整える。化粧をして口紅を塗り、唇をつむいで整えれば、どこに出しても恥ずかしくないOLが出来上がった。
先ほどまでとは別人になった彼女はハイヒールをはき、「行ってきます」と、感情の籠もらない声で、朝の日差しを浴びた。
「恵子、あんたまた彼氏をふったの? また胸?」
と、喫煙室を出るときに、恵子は同僚の糸塚女史に声をかけられた。彼女は怜悧な美貌に眼鏡をかけ、ボタンがはち切れんばかりの胸を無理矢理スーツにおしこんでいた。
「別に男がみんな胸を求めているわけじゃないわよ」
と、困ったような顔をする。
それはそうだろう。彼女は胸だけでなく、尻もタイトスカートをパツパツと張らせている。だと言うのに腰は蜘蛛の腰のようにキュッとくびれて、まさしく彼女は恵子の天敵ともいえる相手だった。
何やら最近部下を彼氏にして、同棲も始めているらしい。そうしてますます美しさに磨きをかけているようで、妬ましく思う自分に恵子は辟易とする。
「ちょっと、なんでまた決めつけるように言うのよ」
「でもその通りでしょ」
「うぐっ、ぐぬぬぬぬ」
恵子はギリギリと歯ぎしりをしてしまう。
「ちょっと、女子がそんな音を立てるものじゃないわよ」
糸塚女史は呆れ顔で、その鮮やかなリップを微かに歪めると、
「そんなあなたに紹介したいアプリがあるのだけど、どうかしら」
と言ってきた。
恵子は彼女の豊満な胸部をチラと見て、複雑な気持ちを抱いた。それはきっと胸に関係するアプリなのだろう。アプリがどう関係してくるのかは見当もつかないが……。しかし、彼女は下手なものを勧めはしない。それに、恵子を馬鹿にしたり貶めたりすることもない。
だから、天敵とはいえ嫌うこともできず、心の底では良きライバルと認め、切磋琢磨の対象としていた。仕事の上で、ではあるが……。プロポーションも恋愛も天と地ほどに業績はかけ離れている……。
しかし。
それは今までのものとは違って効果があるのかもしれない。それでも、敵から塩を送られるのも……さらにはそれで効果がなければ奈落の底に叩きつけられるような屈辱を覚えるに違いない。いつしか恵子は眉根に皺を寄せていた。
「なぁに? 慈善事業のつもり? ふーん、彼氏のできた人は上から目線ですこと。さぞや毎日楽しいでしょうね
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