電気も消えたオフィス。
パソコンディスプレイの青い光が、虚しい打鍵の音に揺れていた。車通りの少ない時間、闇を浮遊する白い影のようなヘッドライトが、時折思い出したように窓の外を通り過ぎて行く。
俺はやり残した仕事に必死で取り組んでいた。他に残っている人はいない。
とはいえ一応断っておくが、この会社はブラックではない。
普段はサービス残業もなく、定時になればむしろ尻をひっぱたかれて追い出されてしまう程度には健全な会社である。それは漂白剤をぶちまけたみたいに白くて、むしろ人間味がないと言ってもいいほど。
これは、仕事の順番を間違えた俺のミスだ。
それに気づいて頬を引きつらせていた俺の不審な様子に、「坂本くん。あなた、何か仕事抱え込んでいるわけじゃないでしょうね」と、上司の糸塚さんは怜悧とも言える美貌に乗っけた眼鏡をきらりと光らせていた。
彼女がそんな一瞬の顔色を見てとったことにも驚きだったが、彼女はツカツカと歩いてきて腰を曲げ、椅子に座っている俺の高さまで顔をおろしてきた。
至近距離から彼女の鋭い瞳に覗き込まれ、真っ赤な唇を少しへの字に曲げられてしまうと、上司に迷惑をかけたくない部下というか、情けないところを見せたくない男としては、ごくりと唾を飲み込みつつ、しらを切るしかなかった。
しばらく訝しげな視線をよこしていた彼女だったが、「ふぅん」と諦めてくれたようで、タイトスカートの形のよい尻をくねらせて去って行った。あの人はモデルかと思うほどにプロポーションがいいのだ。
スーツにきつそうに収まっている胸なんて、まるでゴムまりなんじゃないかって思えるほどに張っているし、腰も蜘蛛のくびれのようにキュッとしまっている。尻は前述の通りだが、大事な部位なのでもう一度言っておけば、今度は控え目に言っておけば、人目も憚らずに飛びついて頬ずりしたくなるくらいには魅力的だ。
見た目通りできるキャリアウーマンという彼女だが、それでいて可愛いところもあった。
この前なんてネイルの色を変えたことを褒めると、「当然よ」とそっけない風だったが、その耳が赤くなっていたことを、俺は見逃してはいない。
正直俺は、彼女が気になっていた。
だからこそ、この仕事は彼女にバレないように終わらせるべきなのであって、俺は暗くなった社内にそっと忍び込んでこの仕事をしている。
しかし。
ヤバい、終わらない。
打っても打っても、まだ打ちやまぬ。教育ママにさせられるピアノのお稽古の方がまだ心労は少ないだろう。俺はカマキリみたいに細くて、カマキリのような眼鏡をかけた痩せぎすのおばさんを想像する。絶対に語尾はザマスだ。
ヤバい。
ヤバいザマス、だ。
と、現実逃避をしてしまうくらいには切羽詰まっているし、そんなカマキリにいっそ切りつけられたいほどには眠気が襲いかかってきている。
一度大きく伸びをして、俺はコーヒーを買いに、席を立つことにした。
一人っきりの会社というのもなかなか雰囲気のあるものだ。
普段は人で賑わっているこの部屋が、しんと静まりかえっていると、どこか別の世界に紛れ込んだ気にもなる。
コツコツ、と。
靴音がやけに大きく響く。
ギィ……。
というドアの音だって、いつもより軋んで聞こえる。
俺は怖がりではないはずだが、廊下の角を回るときだなんて、その向こうから何か得体の知れないものが飛び出してきそうな気にもなって、なるべく大回りで回ろうとしてしまう。
廊下に置かれたソファーは古びて見えるし、喫煙所のガラスには白い影が写っている気にもなる。非常灯で照らされている走る人のマークなんて、突然猛スピードで走りだしそうだ。
やがて、廊下の中ほどに青白い光が滲んでいるのが見えた。
闇から逃げ遅れたように立つ自動販売機で、俺は缶コーヒーを買った。
掃除が行き届いている清浄な廊下に、プンとコーヒーが香る。この香りはむしろ眠気を誘うかもしれない。俺がそう思った時、
カサカサ。
音が聞こえた。
「なんだ? 今の音」
静かな廊下には俺の声だけが通り過ぎていく。
先ほど聞こえた音はもうない。
しかし、慌てて逃げていくような……まるで、大きな虫が這うような音……。
馬鹿らしい。と俺は首を振った。
そんなのはB級映画だけの話だ。現実にあるわけがない。
俺はコーヒーを飲み終えて、ゴミ箱に突っ込む。空き缶のぶつかる音だけが、闇に溶けていった。
俺は自分の席に戻った。
カチカチ。
時計の音だけが俺以外の動くものであり、パソコンのグラフィックが、闇に塗りつぶされず、ただ青く光っていた。
そこでふと、違和感を覚えた。
物の配置が変わっているわけではない。だが、何かが変わっているような。強いていうならば、気温がちょっとだけ下がったよ
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