隙間の女

女は艶(あで)やかに、そこにいた。
隙間から現れて、情欲のこもった瞳で俺を見ている。
生唾を飲み込む。
彼女は正体不明、その意図は皆目見当つかず。だが、彼女の登場で、俺の日常は終わりを告げ、後戻りの出来ない非日常にはまり込んだことは、間違いがないようだった。



「お疲れ様です」
バイトを終えた俺、密暗(みつくら)ゆうは夜の家路を歩む。
暖かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷える。電灯の白さも寒々しい。
大学に入って一年が過ぎた。大学生活はそれなりに楽しく、サークル仲間と馬鹿をやったり、こうしてバイトで遊ぶ金を稼いだり。基本的に充実はしている。
だが、何と言うのだろう。足りない。俺は常々そう思っていた。
それは漠然とした感覚。せっせとパズルを組み立てても、どうしても最後の最後でピースが足りない。完成に至らない徒労。俺と言う人間は、どこまで行ってもこのままずっと何かが足りないままで生き続ける。
そうした当てどもない不安、不安にもなりきれない欠落を、俺は抱いていた。

物心つく頃からそれはそうだった。だが、最近それを切に感じる。
「お前は単に人肌が恋しいだけだ」大学からの悪友はそう言った。
俺に彼女はいない。彼女が出来ればその欠落は埋まるのだろうか?
だが……何か違う気がする。ボタンをかけ間違えているような、そんなズレ。
空を見る。
月は欠けている。
ほう、と息を吐けば、白く膨れ上がり、夜気の中に紛れていく。
別段、寂しい、とも。空しい、とも感じる事はない。

ただーー足りない。とだけ漠然と。
自分という人間を動かすパーツは足りているはずなのに、自分というカタチが足りていない。
手足はあるのに、手足がない。
心はあるのに、中身がない。
ともすればそれはーー
本当の自分はここにはいない、とか。これは本当の自分ではない、とか。
青年期にありがちな自己否定の一種なのかもしれない。
それでも心に隙間がある事は確かで、俺はそれが何かを分からないまま、こうして日々を過ごしている。

電柱を見れば、その後ろに影が蟠っているよう。
もしも何かがいるのなら、この俺の欠落を埋めてくれると言うのなら、その手を取っても良いとすら思える。俺がそう思っていたからだろう。暗がりが俺に応えるように揺れた気がして、少し寒気がした。
ーー俺は都市伝説やオカルトの類に興味がある。
その隙間を埋めるためなのか、それとも、ただそうした世界、”あなたの知らない世界”というものに惹かれる性分であるのか、どちらか分からないが、俺は昔からそうなのだ。
俺は頭を振る。そうして自嘲気味に笑って見せる。
止めよう。帰って寝よう。

俺がこうしてウダウダと、”だろう”だとか”かもしれない”という推定や可能性を並べ立て、心に隙間があるなどと考えるのは畢竟ーー俺が俺のことを分かっていない、それだけの事ーー。
生き別れになった人がいる、とか。況してや運命の相手がいるのだ、とか。そうした事ではない。 俺はただそうしたものに憧れて、ただ望んでいる。それだけの事。

そこでようやく俺の思考はたどり着く。
なんだ。俺は期待しているだけだ、と。
そうした俺の知らない世界がすぐ隣にあって、俺がその世界に関われるのではないか。そんな期待と羨望の裏返し。だからこその隙間であり、だからこそ隙間があるのだと信じたい。
それが入る余地が俺にあるのだと願っている。
俺が息を吐くと、登っていく白が月を霞ませる。
一瞬のことだけれども、揺らぐ世界の狭間に入り込んだ気がして、俺はほんのり気分が高揚した。
下宿の安アパート。
階段を登る硬質な足音が響く。鍵を取り出し扉を開ける。
「ただいま」
誰もいないはずの部屋に、ルーチン文句。帰ってくる言葉はない。だが、俺は息を飲む。

何かが違う。

何か。なにか、ナニカ。
それが何かは分からない。
ここは俺の部屋だ。
洗濯物が溜めてある。干してある食器類は、もう乾いている。ベッドの上に投げ出された文庫本。卓上の焼酎。散乱しているコード類。男の一人暮らしの部屋の匂いーーいや、
そこに何かが混じっている。

俺は違和感を探りながらカバンを下ろす。室内に物色した形跡はない。ベッドに腰掛ける。
女の匂いがしたーー。
それは何処か懐かしさを伴って……。しかし、それは一瞬。ベッドの上に倒れ込めば、もう、その匂いはなかった。それを少し残念に思う自分がいる。
一体、何だと言うのだ。俺は見慣れた天井を見る。無防備な姿を晒しても何も起こらない。

漠然とした蟠り。

匂いといえば、バイト先の先輩のに、シャンプーを変えたかと聞いたら嬉しそうに肯定していた。彼女の陽だまりのような笑顔は、バイト中
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