私は、馬車で人がひかれる光景に出くわしたことがある。
使いの帰りだったのだろう。大きな紙袋をもった少女が車道に飛び出し、やってきた馬車にはねられた。彼女の軽い体は宙に飛び、フリルの付いたワンピースがはためくさまは、花が咲いているようでーー不謹慎にもーー私は思い出すたびに、それは結婚式のブーケトスのように思えてしまう。
車道に打ち付けられた彼女の体からは、それこそ花が咲いたように赤が散らばっていた。
関節はありえない方向に曲がり、口から零れた鮮血は、おしゃまにも唇に紅を引いたようですらあった。
周りの大人たちの悲鳴と喧騒を聞きながら、私はそこに阿呆のように立ち尽くしていた。
と、私の足元に転がってきた何かが、コツンと当たる。
それは彼女の持っていた紙袋から転がって来たようだ。コインよりも少し大きい、円盤状で淵に大きな溝が波打つように連なった奇妙な形状のもの。彼女の血の軌跡を引いたそれに興味を惹かれ、よせばいいのに、私はおもむろに拾い上げた。
その時の私が何を思ったのかは、今になっては知る由もない。
恐ろしい。気持が悪い。
そんなことは思っていなかったと思う。
今思えばーー私はその物体に対して、きっとーー艶めかしい、と思ったのだろう。
運命の歯車のように、私と彼女とつないだ。
艶めかしくひかれた、血色の赤い軌跡。
その時、私のこの運命は、逃れられないものになったに違いない。
◆
君は私が恋をした事があるのかと問う。
それはあるーーと答えれば、君は驚くだろうか。僧侶と言えども人の子である。恋もする。
だが、私のこの話は、あまりにも不思議で、それが真実にあったことであるのか、いまだに私にも信じる事は出来ない。
当時、私はある田舎の僧侶をしていた。
町の人間は私を見て、敬虔な使徒であると思ったことだろう。確かに、昼間の私はそうであったに違いない。だが、夜はーー。
夜、目蓋をつぶった後の私は、ただの人であるどころか、まるで若い貴族であるかのように、酒を飲み、仕えるはずの神を罵倒し。そして或女を抱いていた。
そうだ。女だ。私は彼女に溺れていた。
明け方になって私は目を覚ますが、目を覚ましたはずであるのに、私はむしろ昼間の敬虔な僧侶である私のほうが、夢を見ているような心持がしたのである。
私は恋をした。
燃えるような、この身を焼き尽くしてもまだ足りないほどの情欲の炎。私はあの時、どうして、私の心臓がずたずたに引き裂かれずにすんでいたのか、今となっても不可思議に思う。黒ずんだ、青を焦がしたような夜があった。
彼女と出会った時ーー私が二十代の半ばの学生であったころ。生まれた時から、自分の天職が僧侶であることを疑わずに生きてきたような、そんな青年であった。朝も昼も夜も、僧院にこもり、ひたすらに研究をしていた。
町に出ることなどなく、私は母以外に「女」というものを知らなかった。
私の研究はいつしか認められ、ついに学生から牧師となることを許された。
その日は私にとって、天国に続いていると思えるほどのーー輝かしい道の始まりであったのだ。聖堂の空気は目に見えるほどの祝福に満ちていた。ステンドグラスから落ちる、色とりどりの輝きは私の心を奮わせ、天使が下りてくるのではないかとまで思われた。
私は、同輩の儀式が済むのを待っていた。儀式を終え、順に牧師となっていく彼らを、夢をみるような気持ちで見ていた。
ついに私の番が来た。私は跪き、儀式を授けてくれる司祭の向こうに神がいることを信じて疑わなかった。儀式が進むにつれ、私の心は高揚で満たされる。
ふと、私は視線を感じた。
厳かな聖堂の中。
カチカチと。馬の蹄のような音も聞いた。
私が顔を上げれば、近くに女がいたーー違う。彼女は柵の向こうの椅子に座っていた。
私は突然、今まで感じていた光が、一斉に消えてしまったように思えた。今まで信じていた神への献身が、祈りの専心が、ふっと蝋燭を吹き消したかのように思えた。
美しい。
光の消えた暗闇に、私は放り出されたようだった。底のない奈落。だが、遠くにいるはずの彼女が、まるで影の彼方から浮き彫りになったかのように、私の眼前に迫っている。今までにあった私の高揚は、その色を変えて、私を嵐のただ中へと放り込んだ。
私は目を閉じた。
もう二度と目を開くまい、と。硬く心を閉ざして目蓋をつぶった。
それにも関わらず、私は目を開けてしまう。何故なら、彼女の姿は、光となって私の瞳に刻み込まれていたからである。
ああ、彼女の美しさが想像できるだろうか。
天上の光を集めたところで敵わない。それが地獄の炎であるというのなら、私は喜んでその熱に苛まれよう。
繊細な彫刻家、巧みな画家、最上とうた
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