それは黴のような黒いシミだった。
ビルに、ポツポツと。
誰も気にも留めない。ただの、黒いシミ。
最初にそれに気が付いたのは、目端の利く子供だった。
世界の変化に気が付くのは、まず子供たちだ。
「ママ、あれ何?」
「あれ? あれってどれ」
「あれだよ。あれ。あそこの黒いやつ」
「んー、汚れじゃない?」
その母親も、大半の大人たちと変わらず、子供は何にでも興味を持ちたがるものだとして、取り合わなかった。−−子供とて、異常を異常として認めることが出来るというのに。
その黒いシミはーーシミではない。
彼らは動いていた。彼らは原始の時代より姿を変えず、人に恐怖をもたらし、人の恐ろしい隣人で居続けた存在。
そのシミは、本当に黴のように、範囲を増やし、数を増やし、その旺盛な繁殖力を以て、この世界を占拠するに至る。
「じ、情事……」
掠れた羽音のようなものが聞こえた。
◆
誰も知らない間に始まった。
知っている者は、それを伝える前に終わっている。
終わりを教えてくれない砂時計。
音もなく、ただ流れていく。
誰も知らない間に終わっている。
知った時は、全てが終わったその後だ。
砂時計はひっくり返すこともできず、ただ、終わっている。
◆
朽木竜也は眼を覚ました。
時刻は午後三時を指している。ここには陽光は入り込まない。この部屋の窓ガラスには、内側からガムテープで目張りがされ、人口の光以外は届かない。
彼は引きこもっていた。それは、五年前だったかも知れないし、六年前だったかもしれない。それがどちらであろうと、どうでもいい。今日だって、外に出るという選択肢は、頭の片隅にだって存在しない。
彼はドアを少しだけ開けて、ラップをかけた食事を内側に引き入れる。
冷え切った米粒にももはや慣れた。作業のように食料を口に運んでいる最中、彼はふと膝にむず痒い感触を覚えた。
ーーゴキブリだった。
普通ならば、大の男でも怖気を感じる生き物を、彼は素手で払っただけ。
この部屋の中には、外の常識(ルール)など入り込まない。
別段、その黒い虫を愛でるような嗜好はもちあわせていない。物言わぬ居候。その程度の認識でしかない。それでも、不愉快な言語をまき散らす人間よりはずっとマシだとは思っていた。
彼はパソコンのDVDプレイヤーを起動させる。何時手に入れたかもわからない、B級映画。昆虫が巨大化して、人間に襲い掛かってくるパニック映画だ。ストーリーはお決まりで、心の中で何度もツッコミながら、彼は無言でそれを見ている。
暗い部屋の中、パソコンの光だけが、彼の眼鏡を、無精ひげをーーまるで微かな明かりに揺れる地底湖のような様でーー照らしていた。
画面の中。
巨大な昆虫は、次々と人を襲っていく。
ある者は手足を引きちぎられ、虚構の赤色に染まっている。作り物にしか見えない人の骨には、ブラブラとゴムのような肉キレがへばりついている。
ある者は卵を産み付けられ、新しい虫の苗床と化していく。
お決まりのベタな展開。
どうしてか、主人公だけは難を逃れる。
主人公は、阿鼻叫喚の渦を裂くようにして駆けていく。
沸き起こる悲鳴、濁流のような混乱。画面の向こう。作り物のパニック。
そんな、虚構の世界の悲鳴は突如として
−−外から聞こえた。
彼は胡乱げな目を窓にやる。
悲鳴はいくつもいくつも重なって、耳障りな不協和音を奏でている。
車のクラクションの音。
けたたましい銃声には、彼も首をすくめた。
あの窓の外で、何かが起こっている。だが、それは自分とは関わりのない世界での出来事だ。
彼はその部屋から出る気はなかった。
と。
彼は気配を感じる。
それは久しく感じることのなかったもの。だから、感覚の鈍った彼にも気が付くことが出来た。
強烈な違和感。生命の持つ圧迫感というのだろうか。それとも、知性をもつ獣の、存在感だろうか。
何かがこの部屋にいる。
もともとこの部屋にいたのか。
それとも生まれた?
彼は、徐々に高まっていく鼓動の音を感じる。
浅く、速く。呼吸が、途切れがちに進む。自分の呼吸に、誰かの呼吸が重なっている。
ハッ、ハッ。
自分のイヌのような呼吸を、その呼吸は舐っているように思えた。
湿っぽい。自分の吐き出した息が、相手の唇を通って、その肺腑のうちに無残にも凌辱されているようだ。
そんな心持さえする。
唇? 肺腑? 彼はその相手を漠然と自分と同じような人間として想定していた。人ではないかもしれない。だが、その肉を伴う気配は、紛れもなく……。
彼は振り向くことが出来ない。
だが、相手は彼を放ってはおかなかった。
彼は、背中に触れた手を感じた。それは女の手だった。
シャツ一枚を隔
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