その1

 
 ―誰しも逆鱗というやつは持っているものです。
 
 例えばそれは触れられたくない過去のトラウマであったり、好きな異性への侮辱であったりと様々でしょう。しかし、それを聞いた相手の冷静さを奪うと言う面では同じです。例えどれだけ冷徹な相手であっても、きっとそれは変わりません。
 
 「…いっつぅ…」
 
 既に『あの』騒動かた数時間が立っているというのに未だにこれ見よがしに顔を顰めて、真っ赤に腫れ上がった部下にそっと視線を送ります。それに気づいた部下がさらに顔を歪ませて、頬を慰めるように撫でました。ジパングの血を引いているその部下は彫りの深い男らしい顔立ちをしてますが、必死に自分を慰めようとするような姿は決して見栄えの良いものではありません。しかし、彼のその傷を追った責任の半分くらいはあるであろう私にはそう言って切り捨てる訳にはいかないのです。
 
 ―まぁ、かと言って、それを適当に慰めてやる義理なんてないんですが。
 
 「…それは嫌味ですかウィルソンくん」
 
 そんな気持ちを込めて嫌味たっぷりに部下――ウィルソンをジト目を送りました。しかし、当のウィルソンはそれをどこ吹く風とばかりに受け流していました。私の視線をこんな風に受け流せるのは『彼』以外では、このウィルソンくらいなものでしょう。何だかんだで『彼』を通じて付き合いの長い同期には私が本気で怒っているわけではないと分かっているのかもしれません。
 
 「いや、純然たる俺の今の気持ちですよ中隊長殿」
 「…代理です」
 
 そんなウィルソンの嫌味たっぷりな返事に私は短く訂正を加えました。そう。私はただの代理です。今、こうして中隊を率いて、街近くの森をパトロールしているのも代理の仕事に過ぎません。本来であればこの地位に収まっている人間がいなくなってしまったから、その代わりをしているに過ぎないのです。
 
 「…何時まで、んな寝ぼけた事言ってんですか。もう正式に辞令は出たんでしょう?」
 「受領はしてませんよ」
 
 とは言え、それが時間の問題であることに私も気づいていました。世間的にはもう『彼』は帰ってこない人間なのです。決して死に別れて二度と会えない相手と言う訳ではありませんが、それでも彼が再びこの地に足を踏み入れるのは無い。それが多くの人の――『彼』がデュラハンと共に何処かへと消え去った事を知る者にとっての――共通理解でした。
 
 ―だからこそ…私に『彼』の後釜が回ってきた訳で…。
 
 今までは念の為に代理として、中隊長であった彼の業務を引き継いでいました。しかし、小隊を率いる立場の人間が、代理とは言え、突出した権力を持ち続ける事は組織として歪みを生み出します。特に指揮系統の歪みはそれが顕著で、時として組織を殺す猛毒になりかねません。それを防ぐ意味でもこの街の権力者は私を早々に彼の後釜に着けたいようです。
 
 ―だけど…私はそれを認めたくはなくて…。
 
 自分でも子どもっぽい感情であるとは理解しています。しかし、それでも『彼』の居場所を奪ってしまうようなことをすれば本当に『彼』が帰ってこなくなるような気がしてならないのでした。例えずっと『彼』の居場所を開け続けたとしても、『彼』は帰ってこないと私だって理解しているのです。しかし、それでも尚、私の心は納得しないままでした。
 
 「やれやれ…本当に中隊長殿はあの人がお好きなようで」
 「代理です。…ちなみにホモ扱いしたら分かってますよね?」
 「はいはい。この目であの騒動見てますからね。んなの心で幾ら思っても口にゃ出しませんよ」
 
 ―…そもそもあの騒動は私ではなく、相手が悪いのですよ。
 
 つい数時間前に、『彼』と私の関係を揶揄した言葉が発端の大規模な殴り合い。それは止めに入ったウィルソンの尊い犠牲――殴り合いの最中に突っ込んできて私ともう一人から殴られた――によって何とか収集をつけることが出来ました。とは言え、私はアレに関して何の反省も必要であるとは思ってはいません。この場に『彼』がいない事を良い事に陰口を叩く輩など粛清されて当然でしょう。それが街の治安を護る警備隊の一員であれば尚更です。
 
 ―そうですね…後で彼らの評価に細工でもしておきますか。
 
 権力の私的利用は批難されるべきですが、あんな連中が権力を握るよりはよっぽどマシです。殴り合いをするほど怒りに我を忘れている訳ではないとは言え、怒りそのものを忘れている訳ではありません。寧ろ冷静になった思考があの連中をどうやって地獄へたたき落としてやろうかとそんな思考を張り巡らせているのです。それは取るに足らない思考ですが、パトロール中の暇つぶしには丁度良いものでした。
 
 「それより代理殿、そろそろパトロール終えません?」
 「却下です」
 
 軽い
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