その1

 
 ―ノブリス・オブリージュという言葉がある。
 
 高貴な生まれの者にはそれだけの責任と義務が伴う。それを意味する言葉を護っている者が今の世界にどれだけいるだろうか。古くから争うしか能がなかった人間にはこの義務のことを考えているものは殆どいないだろう。また居たとしても、人間の寿命は哀れなほど短い。100年すら生きられぬ小さな命では変化は免れないだろう。最初はどれだけ高貴な魂を持っていたとしてもそれが歪み、淀まないとは言い切れないのだ。
 
 ―それは魔物にしても同様だ。
 
 ある日を境にサキュバスの本能を剥き出しにし始めたあのメス犬どもに義務という言葉が残っているとは到底、思えない。かつてはその責任と義務を全うしていた魔物もいるだろうが、今では殆どの魔物が日々を楽しく生き、浅ましく快楽を貪るだけの生き物である。そんな連中に責任や義務と言う言葉を求めるほうが愚かだろう。
 
 ―だからこそ、私達…ヴァンパイアは特別なのだ。
 
 永遠に変わることのない『真の貴族』。ノブリス・オブリージュという言葉を遵守し、貫くことが出来る唯一の種族。それこそがヴァンパイアであり、それこそが私たちの高貴さの証明でもある。他の種族にはない絶対で強固なアイデンティティ。ヴァンパイアを『真の貴族』足らしめる一つのピースだ。
 
 ―だから…人間なぞに関わる必要はない。
 
 『貴族』とは孤高であり、人々の尊敬を集める対象でなければならない。賎民どもに気を配るのは必要ではあるが、領地に降りて、同じ目線で会話をするなど持っての他である。人を率いるものとは自他共に特別であるということを示し続けなければならないのだ。その特別性が薄れた時、『貴族』は『貴族』ではなくなる。そしてそれこそが反乱を招く第一の理由となってしまうのだ。
 
 ―そうだ。だから、人間なんぞ…人間なんぞに……。
 
 「おいすーwwwwwwwww」
 
 そこまで考えた瞬間、私の耳に脳天気な声が届いた。思考へと没入していた意識がその声にふっと現実へと返り、自分が物思いに耽っていた事に思い至らせる。特製の安楽椅子に身を委ね、自室で本を読んでいたつもりではあるが、いつの間にかその内容から意識が飛んでいたらしい。多分、疲れが溜まっているのだろう。そう結論付けた私はそっと溜息を吐いた。
 
 ―…また『アイツ』か。
 
 『疲れ』の原因でもある人間の声に私はそっと目頭を抑えた。だが、そこには別に頭痛などは存在しない。ヴァンパイアは強靭な肉体を持ち、その程度では痛みなど感じないのだ。しかし、それでも疲労だけは別である。ほぼ毎日、私の静かな生活をぶち壊しに来る『アイツ』にはほとほと疲れていて……――
 
 「ファニーちゃーんwwwwwwいないのーwwwwwww」
 「…誰がファニーだ」
 
 そう小さく返した声は勿論、相手には伝わってはいないだろう。私はこの距離でも人間の脳天気な声――まぁ、多少、声を張り上げてはいるが――がはっきりと聞こえるが、本人同様に鈍感な奴の耳にはきっと届いてはいまい。そんな人間の能力の低さを鼻で笑いながら、私は再び溜息を吐いた。
 
 ―それはつまり…奴を追い返すには私から降りていかなければいけないという事だ。
 
 毎日、私の静かで高貴な生活をぶち壊しにしてくれる『アイツ』とて完全に常識がない訳ではないらしい。勝手に屋敷に上がり込んだ事は一度もなかった。だが、それは居留守が使えるという意味では決して無い。私が返事をしなければそれこそ一日でも二日でもエントランスで奴は平気で待ち続けるのだ。長い寿命を持つ魔物であればまだしも、短い時間しか生きられず、いき急ぐ傾向のある人間がそうやって時間を無駄にするのは流石に哀れである。
 
 ―結局…私に選択肢はないに等しい。
 
 その結論に再び溜息を吐いた私はそっと椅子から立ち上がった。瞬間、壁一面に並び立つ本棚が私の視界に入る。深夜の暗い世界の中、魔力の光りでぼんやりと浮かび上がる本棚の群れは私の心をほんの少し落ち着かせてくれた。そのまま私は部屋に敷いた真っ赤なカーペットの上をそっと闇色のハイヒールで歩いて行くのである。
 
 ―そのまま部屋を出た先にも赤いカーペットが敷かれていて…。
 
 薄ぼんやりとした魔力の光りが照らす廊下は端が見えないほど長く、また三人が横に並んでも尚、余裕があるほど大きい。窓一つない廊下の上に血のように赤い絨毯が流れている姿はまるで屋敷の動脈のようにも見える。実際、三階建ての大きな屋敷はこの辺りの平均的な建造物からすれば化物同然だろう。小さな一戸建てが殆どの中に百人単位で人が住める建物があるのだから。
 
 ―まぁ、もっとも、そこに住んでいるのは私一人な訳だが。
 
 両親から譲り受けたこの屋敷には元々、
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