―その日の事を私は一度だって忘れたことはない。
群がる羽虫のような人間との戦いの日々。灰色の土壌を踏み荒らす低俗なサルどもとの最中、突如として世界中に莫大な魔力が爆ぜた。津波のようなそれに飲み込まれた同族たちはその場に蹲り、その姿を見る見る内に縮めていったのを良く覚えている。一体、何が起こっているのかさえ理解出来ない私の前で同族たちは人間へと近づいていくのを私は信じられない心地で見ていたのだ。
―私がそれに対応出来たのはあくまで運が良かったからに過ぎない。
低能な人間の魔術師どもが放つ魔術から身を護ろうと周囲に防護膜を張っていなければ、或いは私が魔力だけで言えば同族の中でも飛び抜けていなければ、私もそれに飲み込まれていただろう。
―私の兄上のように。
兄上は私などよりよほど優秀であった。魔力が高い半面、身体的強さに劣る私に比べ、兄上は双方に優れていたのである。折れ曲がった山羊の角も美しく、逞しい四肢がどれだけのメスを魅了してきた頃だろう。性格も最上位の魔獣であるバフォメットらしい誇り高い性格で、皆を引っ張る才能を持っていた。
―その時の兄上は一人の人間と戦っていた。
勇者という魔物にとって忌々しい名前を冠する男との一騎打ち。それは始終、兄上が優勢であった。当然だろう。兄上に勝てるものなど同族の中でも滅多にいない。しかし、それでも他のことに気を配れる余裕があるほど軟弱なサルなどではなかったようだ。ほんの一石で人間に転びかねない闘いの中…兄上はその魔力に気づくのに遅れてしまったのである。
―そして……そして…兄上の身体はどんどんと小さくなっていき……――
「…あ」
そこで私の意識は覚醒した。まるでこれから先を思い出したくないと言わんばかりの意識に思わず自嘲めいた笑みが浮かぶ。しかし、どれだけ現実から逃げようとした所で事実は決して変わらない。あの日、私の兄上はそれまでからは考えられない小さな身体になり、その威厳もまた……―
「…やめよう」
これ以上の事を考えるのは兄上に対する不敬だ。どんな姿になっても私は兄上を敬愛しているし、尊敬してる。私がさっき浮かべようとしていたのはそれからは大きく外れた行為だ。そう自分を戒めながら、私はベッドからのそりと身体を起こす。
―瞬間、私の視界に並び立つ試験管やビーカーが目に入る。
机に上に並べ立てられたそれらは兄上の身体を元に戻そうと研究し続けた成果である。しかし、それが結実する気配は一向になかった。完全に兄上の身体に根付いた淫魔の魔力を引き剥がす為に様々な角度からアプローチを続けているが、見通しすら立たないのが現状である。その無力感に押し潰されそうになる自分を鼓舞しながら、私はベッドから立ち上がった。
―瞬間、部屋の姿見に山羊頭をしたバフォメットの顔が目に入る。
魔王の代替わりから絶滅危惧種にもなったと言える魔物本来の姿を持った私。しかし、それは決して誇れるものでも何でもなかった。私の価値観から言えば、曲がりくねった角は不恰好であるし、瞳にも濁りが少ない。太い四肢は一般的なバフォメットよりも短かった。獣毛に覆われた身体は同族に比べると貧相でなよなよしたイメージが強い。
―本当…兄上に似ても似つかない醜さだな。
兄上は同性である私から見ても惚れ惚れするような理想的なバフォメットだった。全身が気高さと美しさで出来ているようなその姿にどれだけ憧れたかは分からない。しかし、鏡に映る醜い魔獣にはその面影が一切、見えなかった。兄上と血が繋がっているとは思えないその姿から逃げるように私が視線を背けた瞬間、コツコツと廊下を歩く足音が聞こえる。私と兄上を含めて三人しかいないこの屋敷でそんな足音をさせるのは一人しかいない。
―…またアイツか…。
胸中に浮かぶその言葉と共に私は溜息を吐いた。そのまま私は試験管やビーカーに殆ど占領された部屋の中にある唯一の衣装棚へと近づいていく。そのまま適当な棚を空け、一番上のバフォメットサイズのバンダナをそっと首に巻いた。無論、軟弱な人間とは違い、強靭な獣毛に覆われたバフォメットに衣服など必要ない。しかし、これらは全て兄上が私に贈ってくれたものなのだ。自分の醜さに自己嫌悪し、着飾る事に無頓着であった私に身嗜みを整える習慣を与えようと贈ってくれた兄上の気持ちを無駄には出来ない。
―コンコン
「…空いている」
その瞬間、部屋に響いたノックの音に私は不機嫌さを隠すことなくそう返した。それにゆっくりとバフォメットサイズのドアノブを回し、老齢に差し掛かった男がおずおずと入ってくる。サバトの紋章が刻み込まれた兄上手製の黒いローブを見せびらかすようなその
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