『そこ』は形容しがたい程、広い空間でした。
床一面に敷き詰められた畳は地平線の先まで広がって、何処まで伸びているのか把握出来ません。四方八方がそんな調子なので、壁さえも見えないのです。唯一、視界に映る壁らしいものと言えば、一本一本が美しい細工を施された梁の向こうに見える天井裏だけでした。しかし、それも吸い込まれてしまいそうなほど遠く、高いのです。まるで天に向かって突き出すような高い空間を幾つもの歪曲した梁が支えているが、『そこ』には梁と繋がっているべき柱一本さえもありません。無論、『普通』であれば、冒涜とも言える程、広大なこの空間を柱抜きで維持する事など出来ないでしょう。しかし、『そこ』は梁一つ軋む事無く、確かに存在していました。
そしてそんな空間の中にポツンと一組の布団が置かれています。舞い落ちる紅葉を模様にした鮮やかな掛け布団とその下に広がる純白の敷布団は大きく、三人が優に寝る事が出来るでしょう。しかし、その敷布団の上には大きめの箱枕一基しかありません。そして、その箱枕には一組の男女が頭を預けていました。
「…ん……♪」
箱枕をもぞもぞと動かしながら、布団に挟まれた金色の髪が蠢きます。光を受け取るまでも無く、自ら眩いばかりの光を放つような光沢を持つその髪は、まるで太陽のよう。ただし、それは決して太陽に例えられるだけあって苛烈なようにさえも感じられるのです。しかし、ひょっこりと頭から飛び出た一対の耳がその印象を大分、穏やかなものにしていました。ふさふさとした毛に覆われ、思わず手が伸びてしまいそうなほど手触りの良さそうなその耳がピクピクと動き、辺りを伺っている様はまるで小動物のようにも見えます。その漠然とした可愛らしいイメージが、苛烈な金色の光を冬から春へと移る際の身体を温めてくれるような優しい光に変えていました。
その金色の下にある顔立ちもまた穏和な印象が強いです。優しそうなイメージを見る人に与える、閉じたままの目蓋と垂れ下がった目尻。その下にポツンとある小さな泣き黒子は見事に目尻のアクセントとなっています。スラリと通った鼻筋は穏やかなカーブを描き、気の強さとはまったくの無縁でした。顔のラインも掌を誘うように細く美しい曲線を見せ付けているが、何処かふっくらとしていて器量を感じさせます。十人が十人とも振り向くような強烈な美しさを持っては居ないが、傍に居るだけで何処か心温まるような優しい雰囲気を持つ顔立ちをしていました。
「…ん……うふふ…♪」
そして金色の女性は辺りに何も変化がない事を確認した後、そっと身体を向き合っている男性の方へと寄せました。未だ安らかな寝息を立てている男性は、それでも起きる気配がありません。黒鉛のような艶のある黒髪をそっと箱枕へと預けたまま厚い筋肉で覆われた胸を緩やかに上下させているのです。その男性の年の頃は二十も半ばを過ぎた頃でしょう。堀が深く、一つ一つのパーツから自信と気の強さを感じさせる『オス』らしい顔つきを、安心しきったように変えて眠る姿は女性なら誰でも持つ母性愛を刺激するようです。無論、それを間近で見る彼女にとっては我慢が出来ません。彼の眠りをより優しいものにするために、そっと優しく撫でるのでした。
―そう言えば……今日は懐かしい夢を見ましたね……♪
そんな風に男性を撫でている女性の胸にはそっと夢の内容が浮かび上がってきました。それは彼女が彼からプロポーズされた日の事です。嬉しくて楽しくて、辛くて悲しくて切なくて、愛しくて幸せであったその日の感情の動きは長い間生きてきた彼女の人生の中でも一、二を争うほど激しいものでした。今、こうして思い返すだけで当時の感情の波に飲まれてしまいそうなほどなのですから。そして、彼女はそれをゆっくりと反芻しながら、男性をそっと撫で続けるのでした。
―それにしても……アレから色んな事がありましたね…。
彼女の手の中で安らかな寝息を立てる彼がいきなり新加茂の次期頭首に指名された事。彼女の始めての出産。慣れない子育てと様々な業務に追われる日々。しかし、何処か充実したその日々は、今の彼女にとっても輝いて見えるようでした。それも当然です。だって、大好きで大好きで胸が弾けてしまいそうな程愛しい彼女の夫が皆から確かに認められ、頼りにされていた栄光と、そして生まれた二人の子供と共に充実した毎日を送る愛情の日々なのですから。無論、その間、彼女が大好きな交わりの時間は減っていました。一日に十回に近いほど交わっていた二人がその半分も出来なくなってしまったのです。確かにそれに対しての不満はありましたが、彼女にとってそれ以上に愛しく…充実した日々であったのでした。
―けれど…そんな日々は長くは続かなくて……。
彼女が思い返すの
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