―だが、それからが少し大変であった。
殆どの人が出払っていて、エレナも自室で旦那とイイコトしているだろうから見つかる事はなかった。だが、それから割り当てられた部屋へと入り、彼を着替えさせるのがとても大変だったのである。相手は意識を失っている成人男性で、私は身体の動かし方がまだ全て分かっていない子供も同然だ。そんな私が彼を着替えさせるのは部屋中をひっくり返すような大騒ぎになってしまったのである。
「…ふぅ。これでいい…かな」
しかし、前進すれば何時かは目標に辿り着く。この時の私もそれは同じであった。一時間ほどの格闘の末、私は何とかディルクを着替えさせる事に成功したのである。白い上下と言う簡素な姿ではあるが、これでも着替えさせないよりかはマシだ。何せあの服は煤や煙で汚れていた上、治療の為に切り裂かれてしまったのだから。
「よいしょっと…」
そんな事を考えながら、私はベッドに横たわる彼にそっと掛け布団を掛けた。ワーシープの毛がたっぷり詰まったふわふわの布団はきっと彼の身体を癒してくれる筈である。それが私ではない事が少しだけ寂しいけれど、彼が元気になるのであれば四の五の言っている余裕はない。
「…………」
だが、それから手持ち無沙汰になってしまう。ついさっきまで私は肉体を持たない純精霊であったのだ。それがこうして肉体を得ても正直、何もする事が無い。やりたい事はディルクに対するものだけで、その彼が意識を失った今、暇で暇で仕方が無いのだ。
―前はそれにも耐えられたんだけどね。
だけど、肉体を得ていると言う充実感があるからだろうか。心の隙間から入り込んでいる暇と言う感覚は私の中に勿体無いと言う感情を生み出していた。折角、肉体を得たのだから他にも色々出来るだろう。今の間にそれをやっておこうと心の奥底が囁いているのだ。だが、辺りを見渡しても特にやる事は見当たらない。着替えを出すのもディルクがその前にしっかりと整理してくれていたお陰で特に問題も無かったのだ。部屋は綺麗に整頓されていて、今すぐにでも発てる準備が出来ている。
―となると…ディルクの事なんだけれど…。
ワーシープの毛に包まれて寝ている彼は安らかな寝息を立てて、胸を上下させている。規則的なその動きは彼の体調が快方に向かっていることを教えてくれているような気がした。しかし、だからこそ、私に出来る事は無い。このまま放っておけば彼が何時か目を覚ますのは確実なのだから。
―…んーそれじゃあ…。
そこまで考えた所で私は彼の頬についている煤に気がついた。それは恐らく倒れこんだ時にでも付いてしまったのだろう。浅黒い肌とは言え、真っ黒な煤は目立つものだ。それにシーツも汚れてしまうかもしれないし、今の間に拭き取ってあげるのが良いかもしれない。
―そうと決まれば…っと。
掛け声のように自分の胸の中でそう呟きながら私はそっと部屋の入り口の方へと歩き出した。そのまま備え付けの洗面器を取って、廊下へ。そのまま廊下の突き当りを見れば、そこには白い洗面台と蛇口が見える。後はそこで水を補給すれば、彼の身体を拭いてあげることが出来るだろう。
―そう思って近づいた私の視線に真っ赤な女が目に入った。
日輪のような透き通った赤い髪の上では真っ赤な炎が燃え盛っている。まるで髪留めか何かのアクセサリーのようなそれは女の気の強そうな雰囲気に可愛らしさを加えていた。その下に位置する三白眼の釣り目は相手の気の強さを伺わせるようである。トカゲにも似たその切れ長の瞳は真っ黒で、髪との対比が面白い。全体的に血色が良い肌は顔も変わらず、普通よりもかなり赤っぽく見える。しかし、そこにははっきりと艶が含まれており、こうしてみているだけでもきめ細かい肌をしているのが分かった。髪の間から突き出たエルフのような長い耳も同様で、全体的に美しい容姿をしていると言えるだろう。
―これが今の私かぁ…。
鏡の前でそっと微笑めば、鏡の中の私はぎこちなく笑みを返してくれる。…どうやらまだまだ表情を作ると言うのは難しいようだ。まぁ、その辺りは追々、慣れていけばいいだろう。今はただ、こうして美しい女の姿になれた事を喜べば良い。
―でも……ディルクも…喜んでくれるだろうか…?
何度も言うように彼は敬虔で純粋な精霊信仰者だ。魔精霊となった私を拒絶しようとするかもしれない。いや、多分、するだろう。彼は魔物に偏見はないが、別に好いている訳でもないのだ。そして、その価値観から言えば、今の私は精霊ではなく『魔物に堕落した存在』に値するのだから。今まで信頼するパートナーとして十年近くを共に過ごした私だからこそ、余計に彼はそれを許せないだろう。
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