―…アレから一ヶ月が経った。
アレと言うのは無論、六花が私の家から飛び出して言った日の事だ。自分の情けなさ、そして性悪さを思い知らされたあの日から、とても平穏な日々が続いている。六花はアレ以来、山に篭って出てきていないそうだ。町を歩けば、彼女はどうしたのかと大人や子供に聞かれる。そんな彼女の人望に羨ましく思いながらも、私は「知らない」とだけ返し続けていた。
―…そう。それだけの平穏な日々だ。
警邏の最中に私人としての事を聞かれるのは面倒臭いが、それを除けば何ら問題はない。元々、治安が抜群に良いこの町では殆ど犯罪は起きないし、私の出番はないのだ。時折、警邏をして回ればそれだけで私の仕事は終わってしまう。後は詰め所の中で時間が来るのを待つだけ。そんな日が一ヶ月の間ずっと続いていた。
―…それなのに、何で胃痛は治まらないんだよ…。
この一ヶ月の間、私は六花に関わっていない。その顔を見てもすらいないのだ。それなのに、私の胃痛はまるで治まってはくれない。寧ろあの日から日に日に強くなって最近は食事もままならないくらいだ。芋粥ですら受け付けなくなった身体に自嘲すら浮かぶが、それでも私は中々、死なない。思った以上に生き汚い自分にもはや自嘲すら浮かぶ事もなく、私は今日も詰め所の中で立ったまま時間を潰していた。
―……何時もであればそろそろ紅葉が駆け込んでくる時間なんだがな。
チラリと日時計に目をやれば、もう昼過ぎほどの時間帯になっている。一応、人に恐れられている鬼である事を遠慮しているのか六花は常にこれくらいの時期に油揚げ亭を訪れるのだと言う。それが無銭飲食であるかないかは半々くらいだが、三日に一度は必ず何かしらをやらかすのだ。
―…いや、何を考えているんだ私は。
寧ろ六花との繋がりが切れて喜ぶべきだろう。あんな女…心労ばかり増やす所か人の金で飲み食いして喜ぶような女…いなくなって清々すると考えれば良い。実際、今だってそうだろう。私はこの何もない平和な時間に安らぎを感じているはずだ。普段、紅葉が駆け込んでくる時間にはどうしてもそわそわしてしまうし、彼女の姿が見えないだけで今まで以上の胃痛を感じるが、それだけである。他はとても平和で穏やかな日々ではないか。
―…あぁ、まったく…平和で穏やか過ぎて反吐が出る日々だ。
無論、私は何かしらの騒ぎを望んでいるわけではない。私は公僕として治安を維持する側にあるのだから。しかし…しかし、それでもどうしてもこの平和さは好きになれそうにもない。だって、これは六花がいないという事の何よりの証左なのだから。この穏やかな日々こそ私が彼女を致命的に傷つけたと言う何よりの証である。そんな微温湯の中にずっと浸かり続けているのだから、まるで世界中に無言で責められている様にさえ感じるのだ。
「…はぁ」
既に本日、三十四度目の溜め息――こうしてため息を数えるくらいしかやることがない――を吐いて、私はそっと前を見た。そこにはこの町の大通りに直結する中規模の通りがある。油揚げ亭を目指す時に二人で良く歩いたこの道は、今も人通りがそれなりにあるのだ。そして、その殆どはこの近くに住む町民であり、商人は殆どいない。それはつまり普段から想い人と仲良くやっている姿が殆どだという事だ。これ見よがしに腕を組んで、お互いに幸せそうな笑みを浮かべる姿は正直、嫉妬を禁じえない。私が今にも死にそうな状態であると言うのに、幸せの絶頂期であるように見せ付けてくれているのだから当然だろう。
―…おっと、いかんいかん。
今はあくまで公人としての時間だ。私人としての下らない感情を見せるべきではない。そう心を戒める私の視界の端で見慣れた金色が揺れた。この辺りではそう珍しくもないその色に私は幾許の期待を灯しながら、そちらへと焦点を合わせる。
―そこには優雅にこちらに歩いてくる紅葉の姿があった。
はっきりと私を見据えて歩いてくる姿は、その目的がこの詰め所である事を教えてくれる。それに私は一気に歓喜の念を抱いた。だって、それはあの馬鹿がついに根負けして山から下りてきたと言う証左なのだから。でなければ、紅葉がこっちにやってくるはずがない。そう心の中で結論を出し、私は彼女の方へと駆けて行く。まるで我慢の聞かない子供のようだと思いつつも、その足は止まらない。最初はただの駆け足だったのが腕を振上げての走りになり、紅葉の元へと全力で駆けて行くのだ。
「こんにちは駐在さん」
そんな私に紅葉は優雅に挨拶をしてくる。しかし、今の私はそれに満足に返事をする余裕がなかった。今までなかったほどの急いた気持ちが私の背中を後押ししているのだから。まるで今まで募ってきた不安を爆発させた
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