「今夜は随分と月が高い」
誰に言うともなく呟いた私の体に、そっと風が吹きかかる。
本格的な秋に近づく季節の変わり目の風は冷たく、しかしどこか包み込むような柔らかさがあった。
それに揺られた草木がさわさわと音を立てる。
突然の微風に驚きでもしたのだろうか、庭の虫の音が小さくなった。
軽く目をやると、適度に刈り揃えられた草花、木々の間からひそやかに顔を見せる溜め池、周囲に馴染むように置かれた庭石。
どれも見慣れている風景だ。
しかし、このしめやかな夜色の中で煌々と輝く月に照らされる庭を眺めていると、普段とはまた一味違った詩情が感じられる。
季節だけでなく時間とともに刻々と姿を変えていくこの庭が、私は好きだった。
――まったく、いつ見ても飽きないものだな。
再び始まった秋虫たちの鳴き声に耳を傾けながら満足げにため息を漏らすと、再び空へと視線を戻す。
雲一つなく澄んだ漆黒の中に、ただ一つ淡い光を放つ孤月は、自然と目を奪われる美しさを湛えていた。
熟して膨らんだ木の実のような形を見ると、十五夜まではあとほんの数日といったところだろう。
ふと唐突に、庭先に植えてあるイチジクの木を思い出す。
あれが実るにはもう少しかかるだろうか。
紅く熟したものを口に入れた時のあの柔らかな甘さを思い出すとつい咽喉が音を立てた。
そのとき、またふわりと涼風が吹く。
草花を赤や黄の彩り鮮やかに染める気質を孕んだ風だ。
優しく腕を撫ぜる感触は冷たくも、心地良い。
だが、心地良さでいえば我が妻には到底及ばないな、という思いがふいと心の内に浮かんできた。
「旦那様。湯の用意ができましたよ」
偶然か、はたまた私の気持ちを気取ってか。
澄んだ女性の声に振り返ったその視線の先には我が伴侶が、初めからそこにいたかのように静かに佇んでいた。
遅い夕餉を終えた後、彼女には風呂の支度を任せていたのだ。
普段からそれぐらい私がやろうと言いつつも、『旦那様のため』の一点張りで頑として許してくれない。
夕餉の準備片付けに加えて湯張りまで家事の全て頼ってしまうのは申し訳ないが、
しかしその献身的なところに惹かれたのもまた、事実だった。
それにしても。
宵闇の中からほのかな月明りに照らし出された妻は、一目見ただけで息を呑むほどに美しい。
しっとりと水気を含んだ薄藍色の着物が張り付く柔肌は血の気を感じさせず、まるで陶器のように白く透き通っている。
触れれば壊れてしまいそうな儚さ、しかしそれでも優しく受け止めてくれそうな柔らかさを兼ね備えていた。
その白さを強調するように、艶やかな黒を湛える長い髪。
芸術品のように端正な顔立ちの中にも、少し垂れた目尻が愛らしさを醸し出していた。
――何度見ても美しいと思えるのはこちらも同じ、だな。
そんなことを考えると、ひとりでに小さな笑いが込み上げてくる。
もちろん彼女は庭と同じどころか劣るべくもないが、意外な共通点を見つけられたようでつい洒落じみた可笑しさを感じてしまったのだ。
「あぁ、分かった。今行くよ」
それを悟られないうちに返事をして立ち上がろうとした私の隣に、
妻が木張りの縁側を軋ませる音も立てずそっと歩み寄ってくる。
彼女の周りに漂う甘い香がふわり、と鼻まで届いた。
「何をしていらっしゃったのですか? ここにいては、旦那様のお身体が冷えてしまいましょう」
寄り添うようにして見上げるその表情には、夫の身を憂慮する色が浮かんでいた。
ただ夜風に当たっていただけなのだから、それほど心配する必要などないというのに。
内心半ば呆れるものの、本当は妻の優しさが、嬉しかった。
出会ったころからそうだ。
彼女はいつも私のことを想ってくれている。
「何、大丈夫だ。ただ月を眺めていただけだよ」
「月……ですか?」
安心させるように言ってやると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
無理もないだろう。
普段の私は大抵自室に籠もって書物なんかを読み漁っているし、それに月だったら窓からでも見ることができる。
だが今日は何故か庭で落ち着いて眺めたくなって、こっそり抜け出してきたのだ。
そして彼女もまた、惹かれるようにしてゆっくりとした所作で空を仰ぐ。
次の瞬間、ぱぁっとその顔が華やぐのを私は見逃さなかった。
「わぁ……」
言葉も出ない、といった風だろうか。
まるで子供のように目を輝かせ、食い入るように空を見つめる妻の横顔は、それ自体が輝きを帯びているようで言いようもなく美しい。
いつの間にか虚空に浮かんでいた月には薄く細い雲がかかっていたが、それがかえって風情を感じさせた。
「旦那様のお気持ちも分かります。だって今宵は本当に……」
そう言いかけた時、ふと左手に妻の繊細な指が絡まる感触。
「月が綺麗ですもの」
血が通わず代わ
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