いつか帰る、その日まで

 先ほどまでパラついていた雨も既に上がり、分厚い葉の間からはわずかながら陽光が差し込んでいる。
 それのおかげなのか、セルフィア達の行軍速度も上がっているように感じる。
 それでも、雨が上がった頃から蒸されるような暑さが漂い始めている。それでなくてもこの森にどんな危険が潜んでいるか分からず、皆神経を尖らせているというのに。
 この森に侵入してから半時間ほど。未だ一度たりとも魔物との遭遇は無い。突き出した木の根や枝に引っかかってけがをした者はいるものの、無傷と言ってよいほどの被害だった。
 だが、精神的な疲労という点では数時間に及ぶ戦闘にも匹敵するレベルだとセルフィアは思っている。
 先遣隊とはいえ、十分すぎる戦力を揃えてきたのだ。当然、魔物との交戦も想定に入っていただろう。それが、何の手ごたえもないままこうして森の中を歩き続けている。
 そろそろ、元街だった廃墟や残骸を見つけてもいい頃のはずだが、周りの景色は一向に変わらない。自分たちを取り囲む檻のような木々ばかりだ。頭では目的に近づいていることが解っても、変わらない景色が体に徒労感を刻みつける。
 そう。目的だ。この程度のことで、諦められるものではない。
 何年も前から準備を重ねてきた。それよりも前から涙を糧に先に進んできた。光を見失っても、折れはしなかった。

「負けるもんか………先に逝った奴らに合わせる顔がねぇ」

 誰かがそう呟いた。小さな呟きだったそれは、不思議なほどはっきりと聞こえた。その言葉に、全員無言の肯定を返すように力強く地面を踏みしめる。

「姫様に手出した奴らに、思い知らせてやる……」

「俺たちは負けねぇ。たとえ肉片になっても立ち向かってやる」

「今日で最後だ………!! 絶対にあの日々を取り戻す……!」

 それをきっかけに、あちらこちらで堪え切れない思いが呟かれる。中にははっきりとした声で、正しく魂から発せられたようなものもあり、皆の疲労を吹き飛ばしてゆく。
 セルフィアもその声に励まされながら、暗い森の中を行軍する。ちらりと脳裏に亡き姉の面影がよぎり、それを刻みつけるように。
 どんな敵が待ち受けていようとも、必ず故郷を取り戻すことを胸に誓って。




 いつもの、野生に咲く花のような明るい空気を微塵も感じさせず、かといって冷たい訳でもない不思議な空気を纏うアリス。
 彼女の表情が窺えぬまま、リィリはアリスの背に言葉を投げる。

「アリスをどこへやった? ――ユレンシア」

 ユレンシア。その聞きなれない名前に、ゼノンはしかし困惑しない。
 ついさっき、アリスが聞かせてくれた昔話。それに登場した小さな国の最後の姫王の名は、ユレンシアではなかったか。
 そんな、全てを見透かした上でのリィリの問いに、アリス=ユレンシアはゆっくり振り向きつつ答える。

「アリスを? いいえ、どこにもやっていないわ」

 その仕草だけではなく、口調までもゼノンの知るアリスとは違うことに、今更ながら衝撃を受ける。
 ユレンシアは意味ありげな微笑を浮かべ、まっすぐに2人を見据えた。

「では、お前はアリスなのか?」

 森の中を走ってきた余韻である息切れも既におさまり、いつもの静かな両の琥珀をユレンシアに向けるリィリ。そこには激したところなど全く無く、ただ事実を淡々と確認しているようだ。
 過去にも、ゼノンは幾度かこんなリィリを見たことがあった。それはいつも真実の裏で進行している何かに気がついた時で、そんな時リィリは感情が全く無いかのようにふるまう。それが癖なのか、感情を処理する暇も無いのかは分からないが。

「……本当は気が付いているでしょう? 墓守の黒犬さん」

 ユレンシアがそう答える。あくまでその微笑に揺るぎは無く、どこまでもアリスには似合わない表情で。
 いつかのようにリィリを“墓守の黒犬”と呼んだユレンシアを、リィリは無表情に見つめる。静かに凪いだその表情からは、一切の思考が読めない。
 こころなしか、周囲の木々すらもその存在を縮こまらせ、息を殺しているようだ。さきほどからそれを眺めるだけのゼノンも、また。
 もしかしたら、状況は一触即発なのかもしれない。ゼノンにはアリスの様子がおかしいということくらいしか分からないが、状況はそんなに呑気なものではないのかもしれない。
 自分たちにとってアリスが脅威になり得るかとか、そういう次元の話では無く。せっかく芽生えたはずの何か大切なものが、儚くも砕け散ってしまうのかもしれない。そう思うと、居てもたっても居られなくなる。
 が、ゼノンは自分の相棒を信じていた。いつも無表情で、何を考えているかよく分からない彼女だけど、こう見えて他人の心の機微には敏感なのだ。だから、安心して任せられる。
 それから、どれだけの時が流れただろう
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