桜の花も散り、葉桜となって久しい今日。山も野も咽返るような深緑に包まれ、
力強い生命の息吹を感じる皐月を迎える。田には水が引かれ、秋の豊作を祈りながら
熱心に苗植えを行う人の姿が見える。泥まみれになりながらも、まだ見ぬ、そしてきっと
訪れるであろう収穫の時を思うその顔は、見ているこちらもつられて笑ってしまう良い笑顔をしていた。
そんな深緑の季節ではあるが昼間の暑さに比べ、朝夕にはまだ肌寒さを覚える。
しかし、その寒暖の差こそ豊穣の秋を迎えるには必要となるものだ。
強く、逞しく成長するだけではない。気温の差は、収穫物の味をより高めてくれる重要な要素だ。
そしてそんな肌寒さも、人にとっても決して悪いことだけではない。
夜の心地よい冷気は酒に酔い、火照った身体を優しく冷ましてくれる。
そして冷え、覚めた身体は、暖を求め再び酒を求める。
やがて程よく酔えば、心地良さに包まれ、ついつい饒舌にもなろう。
ましてや、隣に愛するものがいれば、それはなおさらである。
酒に酔い、そして愛する人と穏やかに愛を、思い出を語り合う。
これはそんな、少しだけ肌寒い、だけど穏やかな夜のヒトトキを切り取ったお話。
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雲ひとつ無い、白く真ん丸の月が優しく輝く静かな夜。
縁側に座り、そっと家の外に耳を傾ければ、待ちわびたと言わんばかりに蛙の合唱が水田から聞こえる。
その耳を家に傾ければ---トントントン、と包丁と俎板が奏でる音が響く。火にかけた鍋からはグツグツと
煮立った音。音のする方へ向き直れば、台所で忙しそうに料理を行う彼女の姿が見える。
腰まで伸びた長く美しい髪---透き通る様な黄金色---をしたそれは、今は料理の邪魔にならないよう、
薄紅のリボンで1つにまとめられている。
人のそれとは全く異なる、頭部にあるその狐耳は、焼き過ぎぬよう煮過ぎぬよう忙しなく
ピクリピクリと動き音を聞き分けている。腰部に生える4本の尻尾は、今は上機嫌にゆっくりと左右に揺れていた。
「ん……そろそろでしょうか」
そう呟きながら鍋の蓋をそっと開ける。鍋の中では程よく茹だり、さやの縁が開いた枝豆が見える。
いい具合だと判断した彼女は中身をザルに開け、水切りを行う。
程よく水気が取れたそれを皿に移し替え、縁側で待つ彼の元へと持っていく。
「旦那様、枝豆が茹で上がりましたよ」
嬉しそうに笑いながら近づいていく彼女に、『旦那様』と呼ばれた彼が振り向く。
「待ちわびたよ」
そう言った彼の顔は決して待ちくたびれた顔ではなく、むしろ待つことを楽しんでいた顔だ。
持ってきた皿を、縁側に置いていた小さな机に置くと、すぐに彼女は身体の向きを反転させる。
「申し訳ありません。あと2品ですから」
そう言って笑顔の彼女は再び台所へと戻っていく。
台所へと戻っていく彼女---稲荷と呼ばれる、ここジパング固有の魔物---からふと、彼女がおいて行った枝豆に目が移る。
机に置かれた茹でたての枝豆からは、美味しそうな湯気と匂いが立ち込めており思わず手が伸びてしまう。
そんな彼の行動を見透かされた様に、台所から彼女の声が飛んでくる。
「旦那様ー!先に食べ始めてていいですからねー!」
縁側を一切振り向かずに放った彼女の言葉に、思わず伸びた手が止まる。
見られているわけでもないのに、ンンっとバツが悪そうに喉を鳴らし、伸ばしていた手をゆっくりと戻す。
「大丈夫さ、全部出来るまでちゃんと待っているよ」
そう彼女に答えるものの、クスクスと口元を抑えながら笑う彼女の声が聞こえた。
すべてお見通しか、そう小さく呟き笑う彼は、せめて直ぐに食べ始めれるよう2つの盃へ酒を注ぐ。
やがて直ぐに、よし、と小さな彼女のつぶやきとともに残りの2品が運ばれてくる。
「お待たせしました、旦那様。本日のお料理が整いましたよ」
「ほぅ……、鮎と厚揚げか。酒の肴によく合いそうだ」
彼女の左手には串に通した形の良い鮎の焼き物が4匹、そして右手には厚揚げの上にたっぷの長ネギを刻んだものが乗っていた。
どちらからも食欲をそそる香ばしい匂いを放っており、もはや待つのも限界といったところだ。
おもちゃを前にした子供のように忙しない彼に微笑みながら、彼女も彼の隣へと座る…
「それじゃあ、さっそく……いただきます」
「はい……召し上がれ」
手を合わせ大地の恵みに、そして何よりも作ってくれた愛する妻へ感謝を向ける。
さっそく先程から気になって仕方がなかった枝豆に手を伸ばすが、掴む直前ふとあることに気が付き手を止める。
「ん……?綾、塩が振られてない無いようだが……」
見ると確かに塩が振られていない。塩茹でにしているため塩気が無いということは無いのだが。
彼
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