「うん。これでいいです。次は吉田屋さん用の瓶をですね………。」
「頭取、今月の仕入れ量が合わなくて…。」
「どれどれ。…うん、ここの数が間違えてますね。」
「頭取!山田屋さんの使いの人が来てますよ!」
「はーい!今行きます!」
町にあるとある一軒の卸問屋。古めかしいが中規模程度の大きさはある店の中で、喜助は忙しく指示を飛ばしていた。言葉には、子供の頃のような訛りがなく、はきはきとした聴きやすい口調が宿っている。この卸問屋に貰われてから早八年。何故か子供が出来ない主人夫婦の奉公先で見初められた喜助は、読み書き算盤を教え込まれ、頭取としての才覚を表していた。ここまで良くして貰った恩を返そうと身を粉にして働くが、奥方にはいつも無理をするなと釘を刺されるのであった。
「(奥様が気を使ってくださるのは私がまだまだ未熟だからだ。もっと精進せねば…。)」
そう決意も新たに帳簿とにらめっこを始めるがいまいち数字が頭に入ってこない。またか、と一息つくと喜助は捗っていない帳簿を閉じて、台所へとお茶をもらいに立ち上がった。
前まではこんなことはなかったのに、最近になって仕事が手につかなくなることがある。その原因は、喜助にもよくわかっていたが、だからと言って何が出来るわけでもなく、こうやってお茶を飲んだり、煙草を吹かしたりして誤魔化してきた。
「そろそろ一ヵ月か…。どうしているんだろうか。」
小平太が居なくなったと言う便りが来てからすぐに返事を書いたがもう一ヵ月も進展を報せる便りはない。六郎田、幸六それぞれに便りを出したのにどちらからも返事はなかった。そこまで密に連絡を取っていた訳ではなかったが、親友が一人居なくなったと言われ、そのあと何も音沙汰がないのでは、気にするなと言う方が無理な話である。一ヵ月の間に二人に出す手紙の数が増える度に喜助の心にもやもやとしたものが溜まっていくのであった。
「まったく。まだ見つからないならそうと報せてくれるだけでもいいのに。」
奉公人に淹れて貰ったお茶を啜りながら喜助は息をついた。すると、ぱたぱたと急ぎ足な音が廊下から聞こえ始めた。足音は障子の前で止まると、一呼吸おいて声をかけてきた。
「頭取、お手紙が届きました。」
「ああ、松屋さんからかな?入りなさい。」
「失礼します。これを。」
「はい。確かに。……!」
手紙の宛名には、なんと、幸六と書かれていた。丁稚小僧が部屋から出ていくと、喜助はすぐさま手紙の封を切った。
『拝啓、喜助へ。
急いでいるので細かいことは抜きで話す。六郎田達を拐った相手がわかった。
急いで助けに行きたいが俺自身の身も危ない。寺に身を隠すので直ぐに来てほしい。
なるべく急いでくれ。
幸六より』
切迫した内容を読み、喜助は暇を貰うために直ぐに大旦那の元へ駆け出した。
しかし、内容が内容なだけに喜助は気づくことはなかった。
追い詰められているにしては落ち着いた雰囲気の文字、幸六にしては女らしい書体、所々、紫に染まった紙。
そう、気づくことはなかったのだ。
駿馬に鞭を入れ、脇目もふらず飛ばし続けたが、喜助が寺に着いたのは、日がすっかり沈んでしまった宵の入り口であった。
峠の途中にある寺「禅昌寺」。幸六とその師匠であり、育ての親でもある和尚の二人が暮らす寺である。昼に来れば周りの林から溢れる日に照らされた風流な佇まいを見られただろう。
しかし、今は夜。沈んだ日の残光と星々の薄明かりが纏わり着くように建物を覆い、不気味な雰囲気を醸し出していた。
その余りの異様さに思わず生唾を飲み込んだ喜助であったが、親友の助けを断ることは出来ないと意を決して歩を進めた。
開け放たれた門をくぐり、様子を伺う。寺は、正面に本堂を構え、その横に渡り廊下を挟んで寝所があった。どちらもシンと静まり返っており、一つの明かりも見えない。
いや、正確には薄明かりは見えていた。しかし、これを明かりと言っていいのだろうか?本堂は揺らめく空気に覆われ、実際には明るくもないのに闇夜から浮き上がって見えた。それが星明かりによるものなのか、それとも別の何かなのかは解らないが、これだけは言える。
この空気は明らかにヤバい。
喜助は心底、引き返そうと思った。だが、こうも考えていた。もし、幸六が襲われていて、この雰囲気がそれを示しているとしたら…。助けられるのは自分しかいない。ここで見捨てれば後悔する。そう思いつつも恐怖で足が動かない。そうやって足踏みを続けていると向こうから動きがあった。なんと、本堂の障子が勝手に動き、少しの隙間を作ったのだ。喜助は驚いたが、次の動きには心臓を堅くした。
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