「では、ホームルームはここまで。気をつけて帰ってくださいね」
永かった冬がようやく終わり、代わって春がその顔を覗かせ始める三月の終わり頃。それまで『大学受験』と言う名のハードなイベントを前にして極限まで神経を張り詰めていた反動からすっかり脱力していた三年七組の生徒達は、その担任の女教師のおっとりした言葉を受けてそれまで保っていたなけなしの忍耐力を完全にかなぐり捨てた。
そして同級生達が思い思いに立ち上がり、一人ないし複数人で固まって先に帰ったり教室に留まって友人と他愛ない話をしているのを尻目に、葵幹矢は一人、窓際の自分の席についたままぼうっと窓の外の景色を眺めていた。
窓から見える景色は未だ一面の銀世界であった。今でこそ降ってはいなかったが、間近にあるベランダや下方に見える校門前のアスファルト、そして遠くに見える大通りや乱立するビルの屋上にもうずたかく雪が降り積もり、地上は白で埋め尽くされていた。雲に覆われた空もまた白一色に染まり、地上との境界を曖昧にしていた。
「……」
見たくて見ていたのでは無い。これから自分の身に起こる事を想像して高鳴る心臓を抑えたいがために、その白い静謐の世界を視界に収めていたのである。だが目の前の穏やかで薄ら寒い光景とは裏腹に、幹矢の胸中はこの後のイベントを前にした期待と不安で、溶岩流の如く真っ赤に煮えくりかえっていた。
そしてそんな感じで真っ白な世界を表面上はつまらなそうに見つめていたその時、幹矢はその世界の中で白以外の色彩を持ったある物を捉えた。それは両翼を忙しく上下にはためかせて幹矢の視界内に左から右へと侵入し、やがて下方へと滑空して視界下部中央にあった電信柱の頂点に両足でピタリと止まった。その物体は具えた四肢こそ鳥のそれであったが、全体的な形は人間のそれであった。
ハーピー。この世界に古くから存在する、魔物娘と呼ばれる者達の一種である。かつては教団と呼ばれる一派を筆頭にした人間達と対立関係にあったのだが、それも今は昔。今では教団の脅威も殆ど消え去り――幹矢の住むこのジパングでは昔からの事であったが――こうして大手を振って人前に堂々と姿を現す事が出来ていたのだった。
と、そんな感じに物思いに耽りながら幹矢が向けていた視線に気づいたのか、件のハーピーが一瞬驚いたようにこちらの方を向いた。そして幹矢の姿を認めるやいなや彼に向けてウインクを飛ばしてきた。突然の事に幹矢の顔が赤くなる。
そんな彼のウブな反応を見て愉快そうに笑みをこぼした後、そのハーピーは翼を広げて幹矢に背を向けるようにして飛び去ってしまった。
「あの子、なかなか可愛かったわね。惚れた?」
飛び立つその背中をじっと見ていた幹矢の背後から、不意に柔らかな声がかかってきた。幹矢は意識をいきなり現実に引き戻されたような気がして、驚いた表情を浮かべて後ろを振り向いた。
「……なんだ、お前か。びっくりさせるなよ、マシロ」
そして声の主を視界に収め、正体を掴んだ幹矢が安堵の表情を浮かべる。この時彼の前には、腰に手を当てて片方の足に重心を乗せた形で立つ一人の少女がいた。その少女――永井真白はそんな幹矢の不平混じりの言葉を受け、反省するどころかクスクス笑いながら返した。
「ふふ、ごめんね。君の事見てたら、つい驚かしたくなっちゃったって」
「ついってなんだよ、ついって」
「だーかーらー、ごめんって。謝ってるじゃない。本当にごめんね?」
「わかったよ。わかった。わかったから」
切り揃えられた茶色のショートヘアと上背の無い(胸も無い)細身の体を揺らしつつ甘えるような口ぶりで謝罪する真白に対し、幹矢がそう投げやりに返す。すると真白はそれを受けて「本当!? 嬉しい!」と今にも飛び跳ねそうな勢いで己の喜びを表現し、対する幹矢もそんな真白の姿を前にして肩の力を抜き、やれやれと呆れたように苦笑する。それはほんの些細なやりとりであったが、同時に見ていてとても微笑ましい光景であった。
真白と幹矢は高校一年からの付き合いだった。二人はそれから高校三年の今に至るまで、無二の親友として付き合い続けてきた。
真白はとにかく甘えん坊で、ヒマがあれば幹矢にべったりくっついてきた。背も胸も控えめなサイズだった事もあって、幹矢は同年代であるはずの彼女を妹のように見てしまう事も一度や二度では無かった。まあ、幹矢からそんな対応をされる度に真白は「私そんな子供じゃないもん!」と頬を膨らませて抗議してくるのだが、その姿がまた子供じみていたのでその時の幹矢は笑いをこらえるので精一杯だった。
「はいはい、みんな。もう五時ですよ。日が暮れる前に、そろそろ下校してくださいね」
その時、教壇の方からおっとりとした声が響いてきた。このクラスの担任の、園田白子の
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