2. 進次郎さんと私

「あの人が支那から帰ってくるんですって」
そう言った絹江さんの声は、心なしか弾んで聞こえた。
赤トンボが飛び始める頃であった。
「そうですか」
私はそう答えるのがやっとであった。先日の一件以来、まともに絹江さんの顔を見て話すことが少々難しくなっていた私にとって、其れはあまり嬉しい報せでは無かった。
「ほんの二週間ばかりだけれど、やっと御休みが取れたから近いうちにって、昨日葉書で」
「お父さん、帰ってくるの?」
駆け寄ってきた澄子が顔を輝かせる。その頭を撫でながら絹江さんも破顔した。
「そうよ。…最後に会った時は、澄子はまだ五つだったかしらね。お父様のお顔、ちゃんと覚えてる?」
「うん!」
澄子の元気な返事の後、絹江さんは私にも笑顔を向けた。
「征司さんの事も書いたら、是非ご挨拶したいって。御一緒に御食事もされたいそうよ」
「いえ、自分は…。折角の家族の団欒ですからお邪魔する訳にも」
「あら、他の人ならそうかも知れないけど、征司さんなら…」
絹江さんは目を細める。
私は何も言えなかった。絹江さんのその言葉は勿論有り難かったが、やはり自分がこの家族の団欒の場、夫婦の再会の場に居合わせる事は憚られた。道義的な理由以上に、私個人の感情がそれを良しとしなかった。
絹江さんと目を合わせ辛くなった私は、口籠ったまま視線を落として、その小振りな唇ばかり見つめていた。



しかしその日は、予想よりもずっと早くに訪れた。
私が下宿で澄子の相手をしていた或る午後、下宿の戸を叩く者があった。大家に呼ばれて私が玄関へ出向くと、其処に立っていたのはカーキ色の軍服に身を包んだ、背の高い気さくそうな男だった。

「君が征司君かい?」
私が頷くと、突然大きな手で右手をがっちりと掴まれた。
「そうか!家内から話は聞いているよ!」
そのまま大きく手を上下に振られるが、あまりの力強さに私の右腕は肩から持っていかれそうになる。男は屈託の無い笑顔で真っ直ぐに私の目を見つめる。
「綿貫進次郎だ。澄子の面倒まで見て貰ったそうじゃないか。感謝しているよ!」
「いえ、自分は何も…」
「お父さん!」
私が口籠っていると、背後から父親の姿を見付けた澄子が駆け寄ってきた。
「澄子か!大きくなったなあ!」
私に向けた何倍もの笑顔で両腕を広げると、駆け寄ってきた澄子を軽々と宙に持ち上げる。キャアキャアと声を上げる澄子。
重くなったなあと言いながらも、片腕に澄子を難なく抱える進次郎。丸っこい大きな目が澄子と良く似ていた。
「予定より帰国が早まってね。驚かせようと連絡せずに帰ってみたら、我が家の姫は不埒な若者に連れ出されたと言うじゃないか」
悪戯っぽく言ってみせる進次郎。
「悪いが可愛い娘は返して貰うよ。そろそろ絹江も夕飯の支度をしている筈だしね」
「…それはそれは。お父上の許可も得ずに、大変失礼致しました」
「いやいや、勿論感謝しているとも。……で、君も来るんだろう?」
余りに自然に発せられた一言に、思わず彼の目を見つめ返す私。
「夕飯だよ。遠慮する事は無いさ」



綿貫家での夕食は、予想していたよりもずっと居心地の良いものだった。勿論私が既に何度もお邪魔していて慣れていたという事もあったが、それ以上に進次郎さんの裏表の無い闊達な会話に依る所が大きかった。

「やはり、これからの時代は君の様な優秀な若者が日本を牽引していかなくてはな!」
作務衣姿の進次郎さんが本日三回目になる発言を繰り返した。
「もう、貴方さっきからそればかり…」
「大事な事だぞ?俺の様な軍人が幾ら前線で頑張った所で、上の連中が頑固な年寄りばかりじゃあ話にならん!戦という物はもっと長い目を持って…」
まだ晩酌もしていないのに堰を切ったように喋り続ける進次郎さんに若干気圧されながらも、彼の話す支那での様々な経験談に私は大いに興味を持った。後々私の専門となるであろう種々の兵器や航空機の話題は元より、満州で見た道教の祭や上海で出会った人々、広東地方の風物など、本だけでは知る事の出来ない広大な世界が、其処にはあった。
絹江さんは、そんな夫に寄り添いながら、話に耳を傾けつつその顔を眺めていた。その唇には、うっすらと紅が引かれている様に見えた。

私の学生生活についても、進次郎さんは知りたがった。
「…帝大生と言っても、そう毎日勉強している訳では無いですよ。時には仲間と連れ立って喫茶店へ行ったり、上野へ散歩に行ってみたり…」
「ほう、仲間というのは、同じ下宿のご友人?」
「いえ、大体は学部の仲間と。文系の友人ともよく出掛けますが」
「なるほど。で、上野へ繰り出すとなると、何処か良い所のお嬢さんと知り合ったりも…するのかい?」
突然の直接的過ぎる質問に、私は思わず茶を吹き出しかける。
「貴方ったら…あまり征司さんを困らせないで下さい
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