「……ん…」
ジャンは目を覚ました。首筋を汗が伝う。
不機嫌な顔でむくりと体を起こし、ぼんやりと部屋の中を眺める。
「……暑い…」
カーテンを開け放した窓から差し込む真夏の日差しが容赦無く背中に照りつけていた。寝汗で服がじっとりと湿っている。
ジャンは緩慢な動作でベッドを降りると、窓に歩み寄り乱暴にカーテンを閉めた。
薄暗くなった部屋に目を向けると、ベッドの脇のデジタル時計が目に入った。午後4時45分。これほど長時間にわたり眠ったのは久しぶりだった。
「……」
半分ほど覚醒した頭でゆっくりと部屋を見回す。テーブルの上には旧式のテレビ、スタンドライト、鏡。黒塗りの小さな冷蔵庫。ベッドの上には昨夜放り投げたままの荷物と帽子。そして……。
「……やっぱ夢じゃなかったか…」
昨夜と全く同じ姿勢でドアの前に立つ、石像と化したエリーザの姿があった。
「本当に石なんだな……」
石像の前に立ち、まじまじとその身体を眺めるジャン。身につけているジャージはそのままだったが、肌が露出している部分は完全に白い大理石へと変貌していた。
そっと手を伸ばし、昨夜したように腕や肩、頬に触れてみる。どこを触っても、手に感じるのは滑らかな冷たい石の感触だった。
「……」
じっと石像の顔を見つめてみるジャン。大きく見開かれたまま固まった目は、光を失ってただ虚空を見つめている。
ひょっとしたら。ジャンは思った。今のこの状況は、身に余るほどの贅沢なのではないか。自分以外誰もいないこのホテルの一室で、目の前にあるのは世界有数の美術品。自分は今まで興味もなかったことだが、大金を払ってでもこの権利を手に入れたいと願う人間は世界中にいるはずだった。
確かに、見れば見るほど完璧に均整のとれた顔つき体つきは美しいと言う他なく、遥か古典古代に造られたにも関わらず現代にも通じる美を体現している。古代人の叡智が生み出したその奇跡は、美術に疎いジャンにも朧げには理解できた。
しかし、そう感じてもなお、
「…やっぱ……動いてなきゃダメなのかな…」
ジャンはどこか物足りなさを感じていた。
大理石に彫られた形の良い瞳より、くるくるとよく動く大きなグリーンの瞳がいい。
古代の優美な微笑みをたたえた小さな唇より、うるさいくらいに生意気な言葉をまくし立てるあの口がいい。
傷一つ無い雪のように白い大理石よりも、血色のいい昨日の彼女の肌の方がずっと……
「……いや、何を考えてんだ俺は…」
ジャンはふと我に返り、今しがた浮かんだ考えを慌てて振り払った。
石像の彼女と生きている彼女のどちらが魅力的かなど、今はどちらでもいいことのはずだった。無意識に昨日の彼女を魅力的などと考えていた自分が恥ずかしくなる。
「…ったく。こんなんだから俺は芸術が分からねえんだ…」
ドアの前のエリーザに触れないように気をつけながら、ジャンはシャワーを浴びるためにバスルームへと入っていった。
声が聞こえる。
ジャンが何かをブツブツと呟く声だ。
次に着ている服の感触を感じる。
ジャージ特有のざらついた質感が、最初は足、それから背中、胸に触れるようになる。
最後にまばたきを一つ。
ゆっくりと目を開けると、昨日の夜と同じ、こぢんまりとしたホテルの部屋が目の前に広がっていた。窓側のベッドにはジャンがこちらに背を向けて座り、新聞を広げて食い入るように記事を目で追っている。
エリーザは動くようになった手足を大きく伸ばして身体をほぐすと、ジャンの背中に声をかけに行った。
「おはよう。何をそんなに唸ってるのよ?」
声をかけられたジャンはびくりと肩を震わせると、疲れた目をして振り返った。
「あ…あぁ、びっくりした。…もう動けるのか?」
「そうみたいね。もう日が沈んだってことじゃない?」
ジャンが立ち上がって窓のカーテンを開けると、外は薄暗く、空の色は薄い紫を含んだ群青に変わっていた。部屋の時計を見ると、時刻は8時45分を回っている。
「いつの間にこんな時間か…。早く駅に行かねぇと」
「いつでもいいわよ。それで?何を見てあんなに難しい顔をしてたのよ?」
そう言われてジャンは手に持った新聞に視線を移し、ため息をついてからそれをエリーザに手渡した。新聞を受け取るエリーザ。
『100年に一度の盗難事件 フランスの至宝、闇に消える』
問題の記事はすぐに目に飛び込んできた。夕刊の一面を飾る大きな写真入りの記事が、昨夜起こった大事件のあらましを大々的に伝えていた。
『本日未明、中部タンソンヴィルの国立古典美術館に所蔵される世界的に有名な彫刻『ナクソスのヴィーナス』が夜のうちに何者かによって持ち去られていたことが明らかになった。美術館によると、盗難事件はここ80年間発生しておらず、これほどの価値
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