第1話 真夜中の女神

美術館を訪れて作品を鑑賞する人というものは、おおむね3つのタイプに分かれる。

1つ目は、本やテレビで見知った有名な作品を間近で見て目を輝かせる人。
2つ目は、初めて見る作品を前に、じっくりと見つめて何かを感じ取ろうとする人。大抵は作品からは何も感じずに、横の説明文を読んで満足する。
3つ目は、作品を一瞬だけ見てただ前を通り過ぎる人。自分の知らない作品に対しての大多数の人の反応がこれである。
彼女がこれまで見てきた人々は、ほとんどが1つ目の種類だった。しかし、彼女は知っている。大方の人の反応は、テレビで見る有名人を前にした興奮と大差はないことを。画面の中の存在だったものを目の前にして、舞い上がっているだけ。どこかの高名な美術史家が語った言葉を鵜呑みにして、理解した気になっているだけ。
本当のことは誰も分かってくれない。
そう、思っていた。


欧州のとある国、中世の趣きを残す建築群で名高い街に、1つの美術館があった。古代から近代までの幅広い分野のコレクションで有名なその美術館の一階には、これもまたよく知られた広間がある。
【ギリシャ・ヘレニズム期の彫刻】
そう銘打たれた広い展示室には、遠く南の国で発掘された白亜の彫像が立ち並ぶ。
男の身体は引き締まった見事な筋肉を持ち、女の身体は優美な曲線を描く。古代の芸術家が到達した、人間の肉体美の極致がそこにあった。

その中にあって、ひときわ目を引く彫像が1体。
展示室の最奥に置かれたその像は、一瞬纏わぬ裸身で静かに立つ。
その肢体は緩やかなカーブを描き、磨き上げられた大理石の肌は絹のよう。
均整の取れた女性らしい身体つきには、美と官能が同居する。
この時代の彫刻には珍しく肩まで下ろした長い髪は硬い石の彫像であることを忘れさせるほど軽やかにカールする。
見る者全てを魅了するその顔は、凛々しい表情の中にもどことなくあどけなさを感じさせる。

この美術館の目玉にして世界的に有名な彫像、古代の美の女神像だった。



深夜の美術館。
とうに玄関は施錠され、見回りの夜間警備員を除いては館内に人の姿はない。
闇に包まれた一階の彫像展示室には、今日も数多の来館者の目を楽しませた大理石の彫刻たちが、静かに立っていた。最も多くの注目を集めた女神像も、変わらぬ美しさで佇む。

夜警が展示室の前を通り過ぎ、2階へと向かう。遠ざかっていく足音。
展示室が再び静寂に包まれたその時、女神像に異変が起こった。
ピシッ、という軽い音と共に、女神像の足元の台座に小さな亀裂が走る。その音をきっかけに、像に変化が始まる。
女神の足元から、まるで大理石の表面が溶けだすように色が変わっていった。白い石の肌がみるみる色づき、血の通った人間の肌に変わってゆく。
脚から腰、腰から胸へと、徐々に肌色が上っていく。心臓が鼓動を始め、呼吸で微かに胸が上下する。
硬い石の髪が薄いブルネットに変わり、風にフワリと舞う。最後に、形のよい瞼がゆっくりと閉じられる。再び目が開いたとき、そこには透き通ったグリーンの瞳があった。
女神の像が、1人の少女に変わっていた。

女神像の少女は、何度かまばたきをした後、目だけを動かして辺りを伺う。それから少しだけ身を乗り出して夜警が戻ってこないことを確認すると、初めて嬉しそうな笑顔を浮かべ、ピョンと台座から飛び降りた。
床に着地すると、猫のように思い切り伸びをする。

「ん〜〜〜!やっと行ってくれたわね!」
元気のよい独り言の後、少女は手を後ろで組んで上機嫌で展示室内を歩き回り始めた。

「こんばんは!いい夜ね?あなたのトーガ、今日もとっても素敵よ!私ね、最近あなたみたいに服も着てみたいなって思ってるの!」

「こんばんは、砲丸投げのお兄さん!相変わらずすごい筋肉ね!もしあなたが動けたら、どんな記録が出るのかしら?」

「こんばんは、今日もいっぱい写真撮られてたわね!まったく、撮影は禁止だって書いてあるのにね?」
楽しそうに次々と石像に話しかける少女。当然のことながら言葉は返ってこない。しかし少女は気にした様子もなく、隣の展示室へと歩いていった。

真夜中の美術館の散歩が、彼女の毎晩の唯一の楽しみだった。
隣にある【フランドル絵画】展示室を、のどかな田園を描いた名画を堪能しながら通り過ぎる。
いつから、石像である自分がこうして動けるようになったのかは、あまり覚えていない。気がついた頃には、夜な夜な展示室を抜け出して歩き回る生きた石像になっていた。

【印象派の画家たち】展示室では、ぐっと絵に近づいて油絵の具がうねって固まった様を観察してみる。
それ以前のことは、はっきりとではないが覚えている。高い台座から、人々を見下ろす私。人々は私を、世界中で有名な彫刻を見上げて、口々に褒め称え、感動に目を輝かせていた。そんな
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