人は何を成す為に生まれてくるのかと、誰しも一度は己に問うのだろう。
そして己はこれを成すのだと、誇らしく言える人間もそう多くはないであろう。
進次郎さんは言えるのだろうか。
大学の仲間達は言えるのだろうか。
私は?
この私の茫漠たる前途にて、私を待ち受けるものは一体何であろうか?
――「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。」
随分前に死んだ、ある作家の言葉が脳裏によぎった。
或いは人は、何かを成すために死ぬのだろうか?
梅雨空の雲がもう長いこと太陽を覆い隠していた。家の中に溜まる湿気で私の着物も何だか重く感じられるようなある日のことであった。居間で新聞をめくっていた私の耳に、台所から絹江さんの短い悲鳴と、何かの割れる耳障りな音が飛び込んできた。私は咄嗟に立ち上がって台所へ駆けた。
「どうされましたか」
見ると、食器棚の前に立った絹江さんが、盆を手に持ったまま青い顔で立ち尽くしていた。その足元には茶碗が二つ転がり、そのうち片方は二つに割れていた。
「ああ、どうしましょう…どうしましょう…」
「動かないで下さい。今紙を持って来ますから」
私は側に積んであった古新聞と雑巾を手に取ると、絹江さんの足元にかがみ込んだ。飛び散った破片を集め、割れてしまった茶碗と一緒に新聞紙にくるむ。絹江さんが破片で蛇体を傷つけることの無いよう、雑巾で床を一拭きした。
絹江さんは何も言わず私のする事を眺めていたが、やがて腰が抜けたようにペタンとその場にへたり込んだ。顔色はやはりすぐれなかった。黙って俯いたままの絹江さんに、私は慰めのようなものを口にした。
「大丈夫ですよ。少し手が滑っただけです。近頃はお疲れのようでしたし」
「…夫婦茶碗なんです。あの人との」
ポツリと絹江さんが呟いた。
ハッとして手を止めた。新聞紙と一緒に私がくしゃくしゃに丸めた割れた茶碗は、片割れよりも少し大きかった。
この頃の絹江さんは、神経が以前より過敏になっているようだった。新聞に玉砕という文字を見付ける度に沈痛な面持ちを見せ、家に訪問者のあるのを恐れているようにも見えた。特に先日山本元帥の訃報を聞いてからというもの、しきりに軍の動向を心配するようになり、支那とは方面が違いますからと私が言っても気は休まらないようであった。進次郎さんからの便りはここ三週間ほど途絶えていた。
私がかける言葉を選んでいるうちに、絹江さんがまた口を開いた。
「ここへ越してきた時に、上野へ行って二人で買ったんです。まだ澄子が生まれる前で、あの人も将校になりたてで…」
言葉は訥々と、何かに操られるように口から流れ出ていた。絹江さんの下唇が、微かに震え出した。
「沢山稼いで、今度は美濃焼を買ってやるからって、あの人が…それから戦争が、始まって……男の人って、どうしてみんな戦争に、行ってしまうんでしょう…。どうして、お国のために、死んでくるって…」
絹江さんの白い手が、割烹着の裾を握りしめた。
「進さんがいなくなったら、私、もう、どうしたら…澄子と二人で、この世の中で生きていくなんて…私のような女が…」
「そんな事を言うものじゃ…」
「だってそうじゃありませんか!こんな、こんなもんぺも履けない女が…、たった一人しか産めなかった女が…」
ほとんど悲鳴のような感情の迸りが絹江さんの口を衝いて出た。
「世間に顔向けできなくて…!進さんに必要とされなかったら、私に生きる価値なんて…」
「絹江さん!」
私は絹江さんの肩をやや乱暴に掴んだ。ビクリと身体を震わせた絹江さんの目が私を見た。そこから大粒の涙が一粒、頬に零れた。
「絹江さん、茶碗は落ちれば割れます。これが割れたのは貴方が床に落としたからだ。単なる物理法則です」
無礼な事とは分かっていながら、敢えて強い口調で私は言った。目の前にいる私が何か言わなければ、この人は自分から潰れてしまうと思った。絹江さんは怒るというより、ただただ驚いた顔で私の言葉を聞いていた。私は肩を掴む手に力を込めた。
「…お願いですから、それ以上ご自分を傷つけるのは止めてください。進次郎さんは、進次郎さんは…」
「必ず帰ってきます」と、軍人の妻に向かって言うのは憚られた。私は慎重に言葉を選び、できる限り口調を和らげるつもりで言葉を継いだ。
「…今も向こうで務めを果たしておられます。進次郎さんも信じている筈です。貴方は強い女性だと。私にそう言っていましたから」
「…私の事を…?」
「保障します。だからどうか気を…」
その時だった。玄関のガラス戸を何者かが叩く音がした。
「綿貫さん!郵便です」
またビクリと、絹江さんの肩が震えた。一度落ち着きかけた表情に、恐怖の色が蘇ってきた。私は肩から手を離すと、スックと立ち上がった。「私が行ってき
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