その時の私は酷く疲れておりました。ええ、勿論先日の家内との破局のことです。
少しでも家族に楽をさせようと、小規模なレストランを経営。はい、君にもよく来てもらいましたね。
店はそこそこ繁盛してこれならいずれ娘を良い学校に行かせることもできるし、このままでいいと思っていたのですが――
今だから言いましょう。妻には他に男が出来ていたのです。
はい。
私も最初はどうにか説得して止めさせようとしたのですが、ええ、日に日に着飾って、化粧が濃くなって行く妻を見ていてですね、妻の笑顔が自分に向いていないことに気づいてしまったのですよ。
はあ、まあそうですね。そこで完全に冷え切ってしまった。そして自分は自分が妻の立場なら浮気をしたのだろうかと考えを巡らせたのです。
嫌ねえ、自分自身で言うのも何なのですが、結構生活が安定しているというのにわざわざ浮気をするのならこれは本気かと思ってしまって。
はい、娘もいるしこのままではいけないと思ってもいたのですが、反面、いっそのこと解放されたいとも思い始めてきていたんです。
はい。娘もその気持ちに感づいていたのか、だんだん態度が余所余所しくなって、離婚が決まったあの日にはとうとう口さえきいてもらえませんでした。
ええ、あの子には可哀想なことをしてしまいましたよ。これから幸せにやっていけていたら良いのですが――はあ、妻は再婚したと?そうですか。まあ、彼女たちに此処へお見舞いに来る気は無いのでしょうな。
はい。既に彼女たちとの縁は切れてしまったのです。後できるのはせめて遠くから幸せになるよう祈ることくらいです。
ああ、すみません。少し話が脱線してしまいましたね。はい。それで私は落ち込んでいました。すべて私のせいなのか、もう少しこうなる前にどうにか出来なかったのかとか後悔をし続けていました。
しまいには人生が嫌になって、自分が人間であることに疲れを感じていました。
そんな時に思い立ったのです。自然と触れ合おうと、はい。ネイチャーセラピーとでも言いますか、しばらく都会を離れて余り人の居ない田舎にでも行って気分を変えようと――そう思いついたのです。
ええ、それからが早かったですよ、店をしばらく閉めることにして娘の進学のために貯金していたお金を使って日本全国を廻る旅でもしようとしたのです。
ええそうです。そのお金の使い道は、無くなってしまいましたからねぇ。
はい、そして私は手始めにとI県の山にハイキングに行きましたよ。
ええ、私がこちらに戻ってきた辺りから、さほど離れていない場所ですね。
そこで自分は勇んで山登りに挑戦したわけですが、なにせこんな激しい運動はこのかた久しぶりで、恥ずかしながら数合を登った辺りでへとへとにばててしまったのですよ。
自分は息を整えながらその辺に会った切り株に座って休むことにしたのです。
はい、そんな時ですよ。ふと―そよ風が吹いたのです。ええ、普段なら涼しくなってきたなくらいにしか思いませんがね、その時の風は、なんといえぬいい香りがしたのです。
はあ、どういう香りかとも言われましても、まあその時の私は甘ったるい蜂蜜のような、スッキリしたミントのような、そんな印象を受けましたね。
そんな不思議な香りを纏った風が何処からか吹いてくるのです。
ええ、自分はこの香は何処から漂ってくるのだろうと気になりましてね。
疲労もある程度回復していたので、その風が吹いてくる方向へ、余り山道を外れないように進んで行ったのです。
そうやって進んでいってしばらくすると、道は無くなって少し急な斜面にたどり着いたのです。
はい、私も流石にこれ以上はいけないと、来た道を引き返そうとしました。
するとですねえ、またあの不思議な香りのする風が吹いてきたのですよ。
私はやめておけばいいのに、思わず崖から身を乗り出しましてね。
ええ、その時私は足を踏み外して斜面を転がることになったのです。
私は転がっている間、これからどうなるのだろうか、死んでしまうのだろうかと考える反面、どうせもうどうでもいいし楽になれるのだろうかとも思いはじめまして、転がって転がって、身体が藪に突っ込んだと感じた辺りで意識が途絶えたのです。
はい、私にとってそれが全ての始まりでした。
目が覚めると私は、山の川のほとりに居ました。
はあ、怪我は大したことはありませんでした。
少なくとも、身体のあちこちが少し痛むくらいで立って歩くのに何の支障もありませんでしたからね。
私はそのままその場に座り込んでいました。
はい、事故にあったばかりで頭がぼうっとしていたこともありますが、山で遭難したときにはその場から動かない方がいいのか、川沿いに上がるか下るかして道を探した方がいいのかと思案していましたからね。
何にせよ道を見失ってしまい救助隊を待つかどう
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