寒さから体を守る為に覆った、幾重もの毛皮の上着のせいで多少動き辛くはあったものの、なんとか俺は今日も一仕事を終えた。
空っぽになったカバンを肩から提げ、雪山に囲まれた不便な立地のこの町に足を踏み入れる。
もう雪山は越えているというのに、まだ雪はしつこく視界からなくならず、相も変わらず足元に絨毯として広がり続け、俺が歩を進めるたびにザックザックと小気味の良い音を鳴らしていく。……が、さすがに聞き飽きてしまったのが本音である。
もちろん気温はとても低い。息を吐けば例に漏れず全て寒々しい白い吐息に変わるし、肌を晒そうものなら、ナイフで切り裂かれるかのような寒さに襲われる。そしてこちらに関しては俺に関係はないが、土地は痩せてはいないものの、住人たちにとっては作物を育てるのにも、こんな気温じゃ気苦労が絶えない事だろう。
だがそんな不便な、雪山に囲まれたこの町を、俺は実のところ気に入っていた。みんな暖かそうな毛皮の上着を身にまとっているが、見た目だけじゃなく心も実際に暖かい人ばかりだ。初めて俺が山の向こうからこの町にやって来た時も、無愛想な俺を優しく迎えてくれた。
加えて、立ち並ぶログハウスの屋根の縁からぶら下がる氷柱が、夕方には窓から漏れる明かりに照らされキラキラと一斉に輝く光景、住人が身支度を始めた事を主張する、煙突から立ち込める煙、全てが俺の心を和ませるものだった。
給与は十分貰っているから、というのがこの仕事を続けている主な理由だが、最近では俺が家を構えているふもとの町より、こっちの町に居る時間の方が長くなっているのが不思議で仕方がない。
そして今日も俺は仕事を終え、周囲ほとんどを山に囲まれた不便なこの町で身体を休めていた。
……朝、目を覚ました俺は、いつも泊まっている宿屋の主人に挨拶をし、振舞ってくれたおいしいシチューを有難く頂いてから町を出た。もちろん、仕事の目的である郵便物をカバンに仕舞いながら。
いつも通り順調に事が進む。一番大変な山越えも、今回は天気も快晴で、難なく済んだ。朝早くに出発したとは言え、山を隔てた先にある大きな町に到着したのはまだ正午を越えた頃だった。
強いて問題を挙げるとするなら、山を通過している時に時折感じる視線を今日も感じた事になるが、気のせいだと俺は信じたい。あの山はただでさえ危険で、昔はよく死者も出たらしいので、気味が悪いったらありゃしない。
「家に帰って、くつろげる時間が増えるな」
仕事柄、一人になる機会が多い俺は、癖になってしまった独り言をつい呟く。そう、俺には家がある。それも、妻が待つ暖かい家庭だ。
いつも仕事で長い間家を空けてしまうが、いつも妻は俺を優しく出迎えてくれる。……ただ、一人にさせる時間が多いせいか、最近あまりいい顔をしてくれないのも事実だ。それが、最近の俺の気がかりになってもいる。
俺はひとまず郵便物を配送し終えたあと、家へと向かった。妻の顔がまた見られる事と、いつも通り、仕事で得た金をまた貯蓄へ加える事を想像すると、つい顔が綻んでしまうのも無理はないだろう。
今はまだ小さな家だが、苦労して貯めてきたお金でそろそろ大きな家を買えるのだ。前々から家や俺に関して不満を言っていた妻に、俺が新しく立派な家を買ってあげたらどんな顔をするだろうか……今から楽しみで仕方がない。
そんな他愛もない、しかしそう遠くない将来に起こるであろう出来事を想像しながら家へ到着し、扉を開けた俺は、“順調に進んだ”と評したこの日を、“人生で最悪の日”という評価に改めなければならなくなったのだった。
「……なんなんだこれは」
つい、口から言葉がこぼれる。これはいつもの癖で言った独り言とはまた違う類の言葉だ。まず、扉を開けて目に飛び込んできた光景は、“何も無い部屋”だったからだ。
文字通り、床と壁と天井しかない、ただの部屋。だが、入る家を間違えた訳でもない。この家は紛れも無い、俺と妻の家である。
ひとまず家へ一歩足を踏み入れた。色が抜け落ちて、薄い灰色になった木造の床が、俺の体重を受けてギシッという聞きなれた床の軋む音を鳴らす。腰を下ろして休むのに使っていたソファも、食器が並べられていた棚も、妻と並んで寝たベッドも無い。
まるで狐につままれたかの様な気持ちのまま、辺りを眺めほうけていた俺はふと我に返り、この事態がなんなのかを突き止めるべく、まず近所の住民へと話を聞きにいった。
「あ、あら、アレクセイさん戻っていたのね。お仕事お疲れ様」
隣の家の戸を叩くと、すぐにそこに住んでいた夫婦が顔を出してくれた。だが、長い付き合いだと言うのになぜかどぎまぎした様な、よそよそしさが含まれた様子なのが気にかかる。挨拶も程ほどに、俺がさっき見た事を
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