幸せな夢

隣室のドラゴンさんが死んだ。
そんな話を聞いたのは、秋口の肌寒くなってくる頃。
大家さんからの情報だった。

『強い魔物娘っても、元々病気だったらしいからなぁ』

大家さんはなんでもなさそうに言った。

僕は衝撃を受けた。僕は隣室のドラゴン、サナさんが好きだったのだ。
やれ出会いだセックスだ、という他の魔物娘と違い、明らかに理性的で気位の高い彼女に、僕は惹きつけられていたのだ。

他にも身持ちが硬い魔物娘はいるらしいが、僕にとっては一人目がサナさんだったのだ。

しばらく見ないと思っていたが、まさか、死んでしまっているとは。

実感のないままにそんな話を聞いて、僕がちゃんと受け止められたのは、その夜、布団に入ってからのことだった。

僕は泣いた。二十を越えてからの、遅い初恋だった。



それでも朝日は登る。
寝不足の僕が外に出ると、隣室のドアが開いていた。
女性が、なにやら荷物を運び出している。
ドラゴン。サナさんと同じ種族だ。

僕は目が合って、咄嗟に「どうも」と挨拶をした。

「お隣さんですか?」

声はどこか彼女に似ていた。

「あぁ、はい。ご家族の方ですか? この度は、ご愁傷様です。本当に、突然で……」

彼女はじっと目を閉じた。そして言う。

「……ええ、そうですね。サナの妹のエリサです。あなたは」エリサの視線が部屋番号にちらりと飛ぶ。「赤井ひじりさんですか?」

「はい。そうですが……?」

「姉は、よくあなたのことを話していました」

「えっ」

「滅多にいない、ちゃんとした男だと。こんな身体でさえ無ければ、と何度も言っていました。隣に住むために、病院にも入らず……」

「それ、は」

僕は言葉に詰まった。
エリサさんがはっと何かに気付いたかのように顔を上げた。

「あ、いえ。あなたのせいではないです。ただ、元々入院しても先延ばしにしかできない類のものなので。それなら、どうせなら気に入った男の近くに居たいと」

本人の意志です、とエリサさんは落ち込んだ声で言った。
僕は、そうですか、と蚊の鳴くような声で呟くのが精一杯だった。

そんなことを今更言われて、どうしろと言うのだ。

エリサが「それでは」と部屋の整理に戻る。

僕は廊下で立ち尽くすことしかできなかった。
身体の中で何かが溢れて、叫びたいような、走り出したいような思いが頭をぐちゃぐちゃにした。



何もする気が起きない。

僕はベランダの扉を開けて、夜風に涼んでいた。

考えるのは自然とサナさんのことになった。
性を強くは感じさせないスレンダーな身体。
今思えば、病気の影響だったのかもしれないな。

引き出しから見つけ出したタバコにそっと火をつける。甘い香りがベランダに広がる。

『タバコはやめろ。健康に悪いぞ』

ふと、ベランダの外にサナさんの姿を幻視した。

そういえば、それが初めてのまともな会話だった。
ベランダでタバコを吸っていると、コンビニ帰りのサナさんがベランダに飛び乗ってきたのだ。

それまでは、すれ違うときに会釈をするくらいだったから驚いた覚えがある。
あのときはなんて返したんだったかな。

覚えていたはずのことが全然出てこない。

戻しそうになるのを煙ごと吸い込み、頭痛は高いタール値のせいにして。紫煙が染みたせいで涙が出た。

「なんなんだよ……」

今更両思いだったとか。
思い出せない言葉だとか。
色褪せていく彼女の声とか。

頭の中はぐちゃぐちゃのままで、未練がましくタバコを咥えている状況とか。

一度やめたタバコは不味い。

「げほっ、ぐぇっ、うぇぇ」

タバコは身体に悪い。そんなことはわかっている。
それでも、僕はベランダを見つめ、現れるはずもない彼女を待ち続けていた。



夢を見た。

『酷い顔じゃないか。ほら、タバコは身体に悪いぞ、やめろやめろ』

幸せな夢だ。
窓から入ってきた彼女が僕をベッドに寝かして、全くなんだこの体たらくはなどと言いながら荒れた部屋を片付けている。

『サナさん』

サナさんは生前と変わらぬ姿で小首を傾げた。
いや、生前よりも肉付きが良くなって健康的に見える。

『サナさん、好きです』

彼女は照れ臭そうに頭に手をやった。

『もう聞いたよな。私もお前が好きなんだ。ああくそ、恥ずかしいな! ほら、寝てろ!』

僕は無邪気に笑って、布団で顔を半分隠した。

覚めて欲しくない夢だった。
サナさんはもういないのだ。
ぞっと頭を絶望がよぎった。

サナさんが片付けようと触れた場所が腐り落ちていく。
サナさんの足下から部屋がじわじわと黒く染まり、甘い匂いを放ち始める。
部屋が死んでいく。腐った果物のように。

『サナさん……』

僕は苦痛を堪えるかのように呻いた。
サナさんの健康的な身体から赤みが消えていく
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