相島家に帰った鏡花は、預けられている鍵で扉を開けると居間に荷物を置いた。
時計を見ると、定時で仕事が終わっているならば英の両親がそろそろ家に着いている頃合いだ。しかしここ数年は事情がなければこの時間帯に相島家の人間が帰っていることはない。
いつも通りならば、誰かが帰宅するまではもう少し時間がある。
携帯にも早く帰る旨の連絡がないことを確認して、鏡花は自分のために与えられている部屋で朝着ていた和服エプロンに着替えた。
別にメイド服のままでも構わないのだが、家の中ではこの衣装の方がしっくりと収まる。
幼い頃に着物を着始めた時には季節によって柄を替えるような外向けの華やかな衣装など自分には不要だと思っていたものだが、芹や真に季節の移り変わりが分かって助かると褒められて以来すっかり習慣化してしまった。こうなってしまうと無ければ落ち着かない。
窓を開けて干してある洗濯物を取り込んでアイロンをかけ、持ち主ごとに分けて畳んでおく。
庭の植物に水をやると米を炊く用意をしてから、鏡花は道着を持って風呂場に赴いた。
洗濯機では傷んでしまう洗い物専用に置いてもらっている桶にぬるま湯を張る。
剣道着や袴は藍染であるため、手洗いを推奨されている。
鏡花は英が剣道を始めてからというもの、ずっと道着の洗濯を自分の仕事としてきた。
他の家事は場合によっては労働こそ喜びという非常に好ましい性格をしている相島家夫婦と分担して行うこともあったが、道着くらいは自分で洗うと言った英から染料の繊細さを盾にして仕事をもぎ取ってからというもの、一度も他の者に譲ったことがない。
英に言った道着の繊細さは偽りなき事実だ。しかし、鏡花がこの仕事を頑なに自分のものとしているのにはそれ以外にも理由があった。
鏡花は耳を澄ませて家の中に誰も居ないことをよく確認する。
(――よし)
誰も居ない。
鏡花は真剣な目で膝に乗せた英の道着を抱え上げて、肺の中を空にするように大きく息を吐き出し、道着に顔を押し付けた。
「――――、――――」
吐き出した分以上を取り込むように深く深く息を吸う。
繊維や染料、色落ち防止のために浸けた酢のにおいや埃の臭いに紛れている英の匂いを鏡花は無意識に嗅ぎ分けることができた。
肺腑を満たしていく彼の匂いに思わず道着を抱きしめる手が強くなる。
心が昂揚していくのを自覚しながら、鏡花は道着に顔を擦り付け、深い呼吸を数度繰り返す。
神経を冒すような芳香に意識が蕩ける寸前。鏡花は非凡な自制心でもって道着から顔を上げた。
「……健康状態は良好、ですねっ」
そう、これは体臭を確認することによる健康チェックなのだ。
確認ができたのならば、他にもやることはあるのだし、すぐに洗濯をしなければならない。
(でも、もう少し……いえ、いけません)
そのもう少しが危険だ。
匂いを嗅ぎすぎると頭が英のことで満たされてしまって英本人の姿を見ないことには落ち着かなくなる。
気もそぞろで家事をして危うく料理が悲惨なことになってしまいそうになった過去もある。ここは我慢だ。
「健康に問題なし、です!」
誰に聞かせるわけでもない建前をもう一度口にして、桶に道着を漬けてもみ洗いをする。
家事に身が入り始めると、学校では表に出さないように努めていた不安が思考の表層に現れ始めた。
(そう、英君の体調は何も問題ないはずなんです)
にもかかわらず、今日の彼は調子が悪かった。
体調に問題がないというのなら、不調の由来は精神面だろう。
鏡花には英の精神を乱れさせているものの原因が分からなかった。
(普通のキキーモラならば、心が乱れてしまう前に察して支えてさしあげることができたのでしょうか?)
そう考えたことに対して鏡花は首を振った。
普通のキキーモラのことを考えても詮無いことだからだ。
鏡花には、誰に対しても秘密にしていることがあった。
キキーモラは生得的に人間の感情の機微を察する能力に長けているものだが、鏡花は英を相手にすると、その行動の機微から感情を推し量ることができなかった。
他の人に対しては問題なく行えている。にもかかわらず、鏡花が何よりも大切にしたいと思っている人に限ってそれなのだ。
なぜなのかと自問しても答えはなく、鏡花はただ自らを磨くことによって自身の欠陥を補おうと努めてきた。
そんなこれまでの研鑽も意味がないのではないかと衝撃を受けたのが今日の出来事だ。
今日一日の様子と今の検査で英の体調には何も問題がないことは明らかなはずだ。
事実、部活の時までは彼は普通に見えたのだ。
しかし、少し目を離した隙に、英は部長に手痛い一撃をもらって師範に練習メニューを切り替えるように言われるに至った。
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