エピローグ



 鬱蒼と緑が茂る山を登る間に流れてきた汗を拭って彼女はぼやいた。

「あかん、暑いわ。せめて道連れに旦那はんも連れて来ればよかったなぁ」

 とはいえ、商売を休むわけにもいかない。結局こうなってしまうのは避けられなかったろうがつい飛び出る愚痴は止まらない。
 丁寧に整地されていた山道を逸れてからもう随分と歩いた。そろそろ小休止でも取ろうかと思った所で、川の音が聞こえてきた。

「となると、目的地は近いなぁ」

 彼女はもうしばらく歩くことに決め、行商人時代以来しばらく眠っていた行李を背負い直した。
 普段はあまり表に出さない丸い獣耳をそばだて、音の方向を見失わないようにする。
 そろそろ音の源があるはずのところにまで来たが、川はどこにも流れていなかった。

「あー、結界か。そっちに行くゆーてしらせとけばよかったなぁ」

 そんなことを言っていると、突然近くに気配が現れた。
 一瞬身構えるが、気配の主は彼女がよく見知ったものであり、彼女をこの山に招いた者でもあった。

「女将、お久しぶりです」
「おお盛一郎。久しぶりやね」

 現れたのは、戦火で孤児となり、彼女の旦那の元へと預けられた養子となった盛一郎だった。

「ええ。こちらに来るのならば日時を先に言っておいてくれれば近くの町まで迎えに行ったのに。隠れ家は結界で覆われているので来る際には連絡をくださいと文にも書いておいたではないですか」
「たまには歩かな体がなまってまうんでな。それに……まあ君らが驚く顔を拝みたいやん?」
「またそのようなことを……刑部狸に良い思い出が無い方なのでそのような茶目っ気は収めてください」
「かまへんかまへん。そこん所は任せとき」

「ですが」と言い募る盛一郎を制して彼女は先を案内させる。両親がそうだったらしいが本人も頑な人間で、復讐のみに囚われる生き方から脱するまで大変だったことが記憶に新しい。
 商家を継ぐように旦那と一緒に説得してきたが、どうも数字と向き合うよりも現物をどうこうする方に適正があったようで、荷物の護衛や使いに走ることに情熱を燃やしていた。
 そのような案配なので本人には家を継ぐ気はなさそうで、女将達としてはそれも良しと考えていた。
 それでももし自分達の娘が生まれたら、その娘がいい具合に悪どく婿にするのだろうと思っていたのだが、

(まさか、あの朴念仁が使いに出した先で嫁を見つけるとは思わなんだわ)

 それだけの情報でも十分驚きだというのに、気難しいカラステングを言伝の飛脚にするという追撃まで付けてきた。
 更に話を聞けば周囲のご当地神のような扱いを受けている稲荷が見初めたという話で、これはその稲荷の慧眼に感心してしまう。
 とはいえ、いつか生まれるだろう娘の婿候補を取って行かれて何も言わないというのは刑部狸としてありえない。どこの女狐がやってくれたのかとカラステングに渡されていた文を読み込んで位置を確認した彼女は三度驚いた。
 その山は、彼女も知っている山だったのだ。

「なあ、盛一郎」
「はい、どうしました?」
「この山の隠れ家におるっちゅう君が妻にした稲荷やけど、もしかして穂積、とかいう名前だったりせん?」

 山道を先導していた息子はその言葉に立ち止まって首を傾げた。

「紹介する時に初めて名前を教えようと思って文では名は伏せていたのですが、下の町で聞いてきたので?」

 女将が盛一郎の問いに答える前に、新たな気配が近づいてきた。

「盛一郎様。妖怪の気配がしましたが、どなたか訪ねて参りましたか?」

 そう言って現れたのは、金髪金瞳に狐の耳を備えた一人の稲荷だった。
 山道だというのに汚れ一つ付けず紅梅の着物を揺らす稲荷は、女将の姿を視界にとめると眉をひそめ、三本の尾を立てた。

「あなたは――っ」
「ああ、やっぱりなぁ」
「女将? 穂積殿?」

 女将のことを威嚇し初めた穂積は、当惑した様子の盛一郎の言葉を受けて「まさか」と呟いた。

「盛一郎様がおっしゃっていた養母様とは……」

 稲荷――穂積は女将が誠一郎にとっての何者なのかを理解したらしい。
 たいそう驚いている狐を見て、黙ってここに来てよかったと狸は心の底から思った。

「いやはや、文をもらった時にまさかと思ったけども、穂積サンがうちの息子のお嫁さんとはなあ……」
「それはこちらも同じです。まさか盛一郎様の養母があなただとは……」

 狸はうんうん、と頷いていつの間にかすぐ傍を流れている川に目をやった。

「それはそうと、昔はもう少し……そう、ちょうどここら辺りまでは要塞みたいになっとったよな。そんな跡影も形もなくなっとってなんや迷いそうになってもうたわ」
「この山で戦があったのはもう遠い過去の話になりますからね。戦の備えなどとうに取り払ってしまいました
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