向かいに見える山の稜線に沈みゆく夕陽を横目に、灘盛一郎(なだ せいいちろう)は汗に輝く顔を袖で拭って歩みを止めた。
朱の空に感化されるように初夏の空気も夕方のそれに移ろっている。
日が沈むのは時間の問題だ。しかし、彼が歩いている山道は全体の半分をようやく過ぎようかという辺りだった。
町と町を繋ぐこの山は、周囲の町では急ぎでもなければ遠回りだが平坦な街道に迂回して通るのが定石の難所として知られていた。
彼は杖替わりにしていた傘を肩に担って唸り声を上げる。
「飯屋のおやじが言った通り、これは日没までには山を越えられそうにないな」
齢二十の体はまだ動けると主張しているが、陽が沈んでしまえば街道とはいえ山を歩くのは危険でしかない。今日はこれ以上進むべきではないだろう。
そう見切りをつけた盛一郎は、街道脇に風呂敷に包んだ行李を下ろして中から紐を取り出した。
ジョロウグモの糸を編んで作られた紐は、細身ながらも丈夫な代物だ。
盛一郎はそれを傘の頭に結わえた。
これで後は浅く溝でも掘ってどこか適当な木にでも吊るしておけば雨をしのげる寝床が出来上がる。
慣れた野宿の準備のために手頃な木を探そうと盛一郎は森に足を踏み入れた。
獣の気配を探るがどこにも獣が植物を踏んだ跡や食べ残しなどはない。やはりそれなりの数の人間や妖怪などが通る街道沿いともなると獣は警戒して近寄らないらしい。
(それに、おそらく街道の整備を行う役回りの者もいるのだろう)
街道はぬかるみや穴が砂で埋められているし、道に伸びてきた枝を剪定した跡もある。この山越えの道は急ぎの旅行者が利用する頻度が高い。そんな旅人に少しでも楽且つ安全に道中を過ごせるようにと考えられて整備されているのかもしれないと考えると、盛一郎の顔に笑みが浮かんだ。
(大きな戦も起こらなくなって俺もこうして暢気に旅なんぞしている……ありがたいことだ)
そんな盛一郎の笑みに水を差すものがあった。
森の奥の方から、女が何かを拒絶するような厭わしげな声が聞こえたのだ。
盛一郎は、出来るだけ音を立てないよう気をつけながら、声がした方へ近付いた。
声は先程聞こえた女のものの他に、男のものが複数聞こえてくる。話の内容までは分からないが、女の声が一貫して拒絶を示しているところから、狼藉者が女を害そうとしているのだろうと予想できた。
やがて木の陰から人影が見えた。
上等なものと一目で分かる着物を来た女が一人。木を背にした彼女を囲むように、風体の良くない男が四人居た。
男の一人が、女の黒髪をまとめていた簪を掴み、女は「これ以上の御戯れはおやめください」とそれを払いのけた。
パンッ、と小気味良い音が鳴って手を打ち払われた男は声を荒げる。対する盛一郎より少し年下に見える若い娘は、凛とした態度を保って男の怒声に一切揺るがない。それが端整な目鼻立ちと合わさって一種の威厳すら感じられた。
しかし、顔がちらちらと動いており、なんとか逃げようと機会を窺っているのは明らかだった。男たちもそれを理解しているのか、女を囲む包囲は慎重に狭められている。
野盗か何かに追われてここまで逃げて来たが追い詰められたといったところだろう。
見たところ、女はこれもまた上等そうな風呂敷に包んだ荷物を背負っている。見た目から金目の物有りと判断されたか、そうでなければ体目当てだろうか。
(こんな所に居合わせたのも何かの縁か……)
助けを呼びに行って戻ってくる頃には手遅れなのは確実だし、見過ごすのは忍びない。ならば助けるのが人情というものだろう。
かといって正面から打って出た所で、女を人質にでも取られればこちらは手出しできなくなる。
ならば、
(奇襲でまとめて倒す)
やることを決めると、盛一郎はそっと行李をその場に降ろし、落ちていた枝を拾った。
逃げる機会を窺う女の視線が盛一郎が居る位置から外れた瞬間。彼は枝を投擲した。
枝が木にぶつかる音を立て、一同の視線が音がした方へと吸い寄せられる。
それと同時に盛一郎は駆け出した。
まず、女が盛一郎に気づいて「あ」と声を上げ、直後に「しまった」という風に口を押さえる。
当然後の祭りで、何かが背後に迫っていると察した男たちは振り返り――手近な一人を盛一郎が蹴り飛ばした。
襲う側だった男たちは突然加えられた襲撃に動揺した。
男たちが浮足立っている隙に、盛一郎は女を背後にかばう位置に体を滑り込ませて呆けた顔をしている二人目の男の顎を傘で打ち上げた。
白目を剥いた男が倒れる間に、横合いから手が伸びてきて四人の中で一番体格が良い大男が盛一郎の傘を引っ掴んだ。
「なんだてめえ?!」
誰何に応えず、盛一郎が柄の石突を押し込みながら籐を捻って相手
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