教室に戻った英にはそこから先の授業の記憶は一切なかった。
気が付けば放課後になっており、教室にはもうほとんど人は居ない。
眠っていたわけでもないのにこれはまずい。
ついにここまで授業に身が入らなくなったかと思っていると、肩を叩かれた。
「おいスグ。正気か?」
「見りゃ分かるだろ、正気だよ」
「そう見えないんだよ」と言って、礼慈は英の前の席に座った。
「午後からのお前、かなりおかしかったぞ? 指されても席から立ちもしないし」
「え? 俺指されたか?」
「今のお前なら包丁で刺されても気付かなそうだな」
呆れながら礼慈は手を出した。
「もう使わないんなら鍵、返してもらってもいいか?」
「あーごめん、忘れてた。ありがとう」
返し忘れていた鍵を返すと、礼慈は「たしかに」と受け取り、
「部活はどうするんだ?」
「今日は流石にやめとくよ。言いつけを破ったら師範に吹き飛ばされそうだ」
「賢明だ」
「……なあ」
「なんだ?」
この時の英は、魔が差していたのだろう。気が付けば、こんなことを言っていた。
「悪いんだけど、その水筒くれないか?」
「あ? 中身ごとか? 大取に恨まれるから……と、そうだな。ま、いっか」
拒否しようとしたのを何故か思い直して、礼慈はいつも持ち歩いている水筒を取り出した。
「ほら」
「ありがと」
「何があったのか分からないが……いや、本当に分からんな。まあ、なんとかなるだろうと思ってるから、なんとかしとけよ」
友人のふわっとした励ましに口もとが緩む。英のその様子を確認した礼慈は一つ頷き、
「で、全部片付いたら何が起こったのか教えろよ。それがそいつをやる条件だ」
「その条件だとこいつの中身のせいで忘れちゃうかな」
「じゃあ、大取が午後の授業サボった件。こっちで体調不良で早退したってことにしといたと伝えとけ。それで勘弁してやる」
気を遣ってもらっているのは分かるが、携帯でメッセージを送るだけでも敷居が高い今の状態では、残念ながらその条件でも英には辛い。
その件は礼慈の方で伝えてもらえないかと交渉しようとするより早く、彼は席を立った。
「じゃあ任せたぞ。俺は生徒会室で仕事だ」
「あ、おい――」
英が呼び止めるのも聞かず、礼慈は教室を出て行ってしまった。
うな垂れた英は手の中に残された水筒を貴重品であるかのように握りしめた。
●
とぼとぼと力無い足取りで家に帰った英は、玄関を開けとして、ノブが回らないことに一瞬戸惑った。
(そりゃそうか……)
内心で独りごちて鍵を開ける。
自宅の鍵を使うなど、いったいいつぶりのことになるだろう。
玄関に入り、しんとして人気のない廊下を眺める。
誰も居ない家というのも珍しい。いつもならば部活があるため、帰る頃には両親が居るか、そうでなくとも鏡花が家事をしているか、彼女と一緒に家に帰ってきているかといった具合で、誰かしらが家に居るのが常だった。
食べそびれた弁当を台所に置いて自室に行くと、英は荷物をその場に放って制服も脱がずに礼慈からもらった水筒の蓋を開けた。
飲み口に鼻を近づけると、揮発したアルコールのにおいがする。
この前礼慈が生徒会準備室で飲んでいたものとは違う系統の甘いにおいだ。酒には詳しくないが目がツンとする辺り、ビールよりも度数が高いことは間違いないだろう。
強い酒ならば酔いも早くなるだろう。
今の気分におあつらえ向きだ。
(思いっきり酔ってやる)
水筒に口をつけ、一気に飲み込む。
液体が喉を通過した瞬間、英はむせてその場で酒を零しながら咳き込んだ。
「――っだこれ?!」
喉が焼けるように熱く、咳をして空気を通すたびに熱い部分がヒリヒリする感覚を寄越した。
背中を丸めながら、熱が過ぎ去るのを待つ。
そうして咳が収まるころには体がカッと熱くなっていた。
生まれて初めての酩酊感だった。
口もとを拭い、多少ふらつきながら椅子に座る。
「酒って、こんなもんなのか?」
まだ喉に多少の違和感があるものの、普段とあまり変わりのない声が出てほっとする。
今度は恐る恐る、少量を口に含んで喉を痛めないように熱い飲み物を飲むように慎重に飲み下す。
一口飲むことができれば、続く一口も余裕だった。
(美味くはないけど、飲めないってわけじゃないな)
酔いの回り方も幸いにして思ったよりも早い。このまま飲み続ければ本当に色んなことを忘れることができるかもしれない。
(忘れるのは鏡花への恋心とか、そういうピンポイントなのはねえかな)
ぼんやりし始めた頭でそんなことを考えていると、パソコン画面に目が向いた。
おもむろにスイッチを入れ、引き出しの二重底から記録媒体を取り出して、鏡花の写真
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