悶々と


 家に帰った英は、ぼんやりとしたまま玄関を開けた。
 使う必要にかられることがほとんど無い鍵を靴箱の上の受け皿に放ると、その足で台所に向かう。

 台所では鍋が火にかけられており、トレイには切り分けられた食材が並んでいた。
 流しには使い終わったボールとまな板。それに昼に食べた二人分の弁当箱があり、鏡花はそのただ中でいつものように立ち回っていた。

 英は鞄から間食用の弁当箱を出す。
 ファンシーな絵柄で小鳥と狼が描かれた弁当箱は幼稚園の頃に鏡花が使っていた物だ。同じ頃に英が使っていたものは既にどこかにいってしまっているというのに、大した物持ちの良さである。

 英はそれを流しに持って行こうとして、ふと内心で首を傾げた。

(帰ってきてからまだ鏡花から声をかけてもらってない……よな?)

 英も生徒会準備室からここまで、いつもの道をぼんやりしたまま帰ってきたので鏡花の声をつい聞き漏らしてしまったのかもしれない。だがもしそうなら鏡花のことだ、台所に顔を出した時にもう一度挨拶をしてくれるはずだ。

 そういった普段との違いに違和感を覚え、ついでにいつも鏡花の方から声をかけてもらっていたのだと普段意識せずにいたことを自覚しながら英は鏡花に声をかけた。

「ただいま」
「へぁ?!」

 卒然、鏡花は頓狂な声を上げて飛び退き、その反応に驚いた英は思わず弁当箱を流しの中に取り落としてしまった。
 ボールに弁当箱がぶつかる音が響く。
 その音を背景にして、二人は互いの顔を凝視した。
 しばらく見つめ合っていると、鍋が噴きこぼれる音が鳴る。

「あっ」

 普段自己主張しない耳を一度跳ねさせて、慌てて鏡花が火を弱める。そうしてから英に向き直り、

「えっと、あれ? いつの間にお帰りになられたのですか……?」
「いや、ついさっきだけど」

 鏡花の反応に面食らっていた英はようやくフリーズ状態を解除して答える。鏡花は 「そんな……」と呟き、大慌てで頭を下げた。

「気が付きませんでした。申し訳ございません!」
「俺も火を使ってる時に不用意に声をかけるべきじゃなかった。ごめん」
「いえ! つい料理にばかり集中していた私の粗相なのですから、英君が謝らないでください」

 頭を下げたままのアッシュブロンドのグラデーションを普段と違う視点で見ながら、家の人間の帰宅に鏡花が気付かなかったのはこれが初めてなのではないかと英は思う。

「とは言っても、鏡花だけが悪いってことはないんだから、顔を上げてくれ。今ので怪我とかしてないか?」
「いえ、大事ありません」
「着物に汚れとかついてたりは?」

 一呼吸の間をおいて落ち着きを取り戻した鏡花は絡げた袂を目で示し、

「エプロンを着けているのですから大丈夫ですよ」

 そう言って自分の言葉を証明するように、その場で軽く回った。
 おどけたような、それでいて見事な足捌きによる一転に見とれた英の様子を誤解して、鏡花は慌てて衣服をチェックし始める。

「どこか、汚れてしまっておりましたか?」
「いや、違う違う。どこも汚れてない。ただ……」

 あー、と声を上げながら、英は自分が見とれていた事実を塗りつぶす言葉を捻り出した。

「綺麗なんだけど、和服って袖は絡げられても女子は裾をおいそれと上げられないから汚れたりしないのかなとか思ってさ。和服って洗うのが難しいイメージあるし」

 藍染の道着や袴などは洗濯機で洗うのは避けたいと言われている。では手洗いをしてみようとして両親に待ったをかけられたことがある英の中では和服は汚すと面倒というイメージが先行していた。

「ほら、俺はよく袴とか汚すから、鏡花はどうなんだろうと思ってさ」
「英君のように激しい運動をするわけではありませんので、慣れてさえしまえばそう汚してしまうこともありません」
「そっか、そうだな。今見た感じだと汚れもないもんな」

 そう言うと、鏡花は誇らしげに頷いた。

「訓練の賜物です。それに、お洗濯も慣れですよ。今となっては苦労もありません。むしろ至福の――」

 鏡花の表情が一瞬固まった。

「ええ、――私服をお洗濯するのと変わらない心持ちです」
「そんなに敷居が低いならそろそろ自分で洗濯するってのもいいかな」
「それはいけません!」

 語調鋭く言った後で我に返ったように、あ、と呟くと、鏡花は取り繕うように笑みを見せた。

「せっかく趣が出始めたところなのですから、今しばらくは慣れている私の手でお洗濯をさせてはいただけませんか?」

(相変わらずここは強情だな)

 他の家事については英の手出しをある程度認めているというのに、こと道着の洗濯に関しては頑なに英の手出しを許してはくれない。

 通常の洗濯とは別で手洗いするものであるため相島家全体の家事とは別枠と
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