前編・現

 私は自分が嫌いです。馬の下半身も、歩くたびに音を立てる蹄も、大きな馬のお尻も。速く走る事はできるけど、普段は不便なことが沢山あります。大きくて狭いところを通れないし、重いし。
 細くて華奢な腕も嫌いだし、それと不釣り合いに大きな胸も嫌いです。羨ましがる人もいますが、少し走っただけで上下に揺れるのが死ぬほど恥ずかしいのです。いっそのことサバトに入ろうかと思ったこともありますが、あの無邪気で可愛らしい幼女さんたちの輪に入るのが怖くなってしまいます。もちろん、彼女たち自身が怖い訳ではありません。私が一番嫌いな、この臆病な性格が、あの賑やかな場所に入るのを邪魔するのです。

 そんな私が、ある男の人を好きになってしまいました。とても素敵な人ですが、やっぱり目を合わせることすらできません。ただ後ろから見守るくらいが限界です。
 でも。それはあくまでも、昼間の世界での話。彼が目を閉ざし、その向こうにある世界へ飛び込んでしまえば……あとは私の思うままなのです。彼と手を繋ぐのも、抱き合うのも、唇を奪うのも、淫らなことをするのも。
 その素晴らしい世界とは、夢。

 私はナイトメアのイリシャ。夜を駆け、夢の世界でいななく黒馬の魔物……






 ……なんて、考えるだけならいくらでも恥ずかしい台詞を述べられます。ああ夢って素敵。

 と、いうわけで。
 今夜私は愛しの人の夢へ乗り込みます。では今、この昼間の時間に何をしているかというと……情報収集です。昼間のうちにこっそり彼の跡をつけて観察し、それを元に性癖を見抜きます。そうすれば夢の中で、より華麗にあの人を魅了できるはず。
 昼間は怖いけど、身を隠す魔法を使いながら彼のお店へ向かいます。昼間にナイトメアと遭遇することは滅多にないと書物には書かれていますが、こんな風に身を隠しているだけの場合も多いんです。私の姿が見えなくなるので、駆け回っている子供を蹴ってしまわないように注意して歩きます。

 そしてたどり着きました。白い看板に緑の文字で『カルジェール理髪店』と書かれたお店です。ここにあの人がいる……そう思うと、早く彼の夢の中へ飛び込みたいという欲望で一杯になってきました。でもその時間をより素敵なものにするため、昼間の彼をじっくり観察しないと。

 このルージュ・シティの職人通りは今日も賑やかですが、路地裏へ回ってしまえば静かになります。ときどきエッチしているカップルがいたりしますが。リア充爆発してくださいませ。
 ……じゃなくて。町の人たちがみんなで奇麗にしているので、路地裏も結構清潔です。そしてここから彼の店の裏手へ回り、窓から中を覗くことができちゃいます。

「……よし」

 店の裏手に回り込み、姿を消す魔法は維持していると疲れるので解除しました。一階がお店で、彼の部屋は二階。今日見るのは彼の仕事風景です。私は両耳を前に向けて神経を集中させつつ、白いカーテンの隙間からこっそりと中の様子をうかがいました。

「わぁ……」

 ……いました。彼です。
 女の人と間違えそうな顔つきで、髪も長い男の人。でも私が気に入っているのは見た目の奇麗さではなく、ハサミを鳴らしてお客さんの髪を切っているその手つき。そして髪をじっと観察する、その眼差しです。彼の姿を見るたび、私はボサボサに乱れた自分の髪を触り、彼にこの髪を整えてほしいと思ってしまいます。でも私にはこの店の表玄関をくぐる勇気がありません。昼はこうしてじっと見つめて、夜の世界で踊ることを待つのみです。
 彼……理髪師レヴォン・カルジェールさんと。

 耳に力を集中させ、中の会話を聞き取ります。私たちの魔力はこういうことにも向いているのです。

「……ヒューイー、仕事の方はどうだい?」
「おう、新作の香水をもうすぐ発表するんだ」

 素早い手つきで髪を切りながら、レヴォンさんはお客さんと談笑しています。話をしながらも目はしっかり髪とハサミを見つめて、鮮やかな手つきで散髪していました。私は下半身が馬だからあの椅子に座ることはできないけど、いつかあんな風に髪を切ってもらえたら……。

「ちょっと値は張るんだよ。材料にアンバーグリスを使ってるもんだからな」
「アンバーグリスっていうと、クジラの腹から採れるやつ?」
「そう。前に捕鯨船が入港したときに仕入れたんだけど、いつでも手に入るわけじゃないからさ」

 店の中全体を見ると、他にお客さんはいませんでした。多分暇な時間帯なんでしょう。できることなら今すぐ店に飛び込んでお客さんになりたいところです。もっと欲を言えばお嫁さんに……

「まあ看板には丁度いいだろう。お前の仕事は繁盛してるか?」
「お陰さまでね、朝に何人か来てくれたよ。面白いお客さんもいたし」
「例えば?」
「メドゥーサの女の子がね。髪を切れば
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