中編

 パン屋の朝は早い。
 いや、今日は別に早起きしなくてもいいのだが、まだ周囲が寝静まっている頃に起きてしまうのは職業病と言うべきか。新たな職場に来たことへの緊張もあるだろう。普通なら開店時間に焼きたてを店頭へ並べるため、早朝から大急ぎで仕込みに入るものだが、今日作るパンは午後にやって来る商工会の面々に出すものだ。腕利きの職人が集うというこの町に俺の腕を見せる狙いもある。最近はいろいろ慌ただしかったし、今朝はゆっくり寝ているつもりだった。

 だがせっかく早く起きたのだし、散歩にでも行ってこよう。天気を確かめるべく窓から外を見ると、教会の玄関先に馬車が停まっていた。こんな時間に誰だろうか。
 御者はこの町の軍装をしており、馬車の前に二人の人影があった。ヅギさんとシュリーさんだ。二人は何か言葉を交わすと、ヅギさんの方が馬車に乗り込む。ステップに足をかけた際、昨日のように咳をしていた。

 彼を乗せて馬車が走り出し、シュリーさんはその後ろ姿を寂しげな表情で見送っている。昨日は常に微笑みを浮かべていた彼女があんな顔をするのだ、何かあったのだろう。

「戦、か……?」

 ルージュ・シティは人間と魔物が平和的に共存しているが、当然ながら教団がこの町の存在を許すはずがなく、自衛のための軍隊を持っていた。そしてヅギさんの明らかにカタギではなさそうな雰囲気からして、不穏な空気を感じざるをえない。
 それでも何があろうと、この町から去る気はない。今まで様々な町を渡り歩いてきたが、修行この町でなら腕が思い切りふるえるだろうし、何よりポリーヌとも出会った。この町でもし戦に巻き込まれても、俺はここに踏みとどまる。今までのようにはいかない。

 そう思った瞬間。

「うわっ!?」

 突然窓の外から、青い瞳がのぞき込んできた。ポリーヌだ。俺の反応を見て微笑みながら、ガラス越しに手帳を見せてくる。

 ――『おはようございます。入ってもいいですか?』

 文章で挨拶をする彼女に、俺はとりあえず窓を開けた。朝の肌寒い空気の中、彼女を外に居させるのは気が引ける。

「どうしたんだ? こんな朝から」

 昨夜の不思議な遊びを思い出し、少し胸が高鳴る。暗示をかけられながらの、恐ろしくも気持ちいい強制オナニー。こうして対面しているだけでも、彼女の唇からあの魔法の声が出てくるのを期待してしまう。
 そんな俺の心を知ってか知らずか、ポリーヌは窓の桟を乗り越え、蛇体でずるずると這って寝室に入ってきた。小さな部屋なので、下半身が蛇の彼女が入ってくると途端に狭くなる。ポリーヌはしっかりと窓を閉め、手帳に文章を書き込んだ。

 ――『早くからごめんなさい。よろしければ』

 書きながら、彼女はちらりと俺を見た。頬を染め、恥ずかしがっているような表情をしていたが、すぐに文の続きを書き込む。

 ――『ほんの少しだけ“おしゃべり”しませんか?』

 おしゃべり。ポリーヌが声を出して思い切り喋れるのはどんなときか、昨晩学んだ。この場合のおしゃべりというのも筆談ではなさそうである。ポリーヌの顔を見ると、彼女は細長い舌をぺろりと出した。先端が二股に分かれているのが妙に艶かしい。
 あの舌で、唇で、またささやいて欲しい。蛇体で抱きしめて欲しい。俺の心が傾くまで、時間はかからなかった。

「……じゃあ、お願いしようかな」

 そう答えた瞬間、ポリーヌは俺に抱きついてきた。一瞬心臓が跳ねるも、俺も彼女の上半身を抱きしめ、巻き付いてくる蛇体を受け入れる。全身を縛り付けられ体がこわばるが、それは昨日のように恐怖心からではなく、彼女と見つめ合いながら抱き合っている興奮からだった。

「フィルマンさん、温かい……」

 彼女がそう呟いた瞬間、脳がじんわりと痺れてきた。こんな些細な言葉にも魔力を帯びており、昨夜の強制オナニーを思い出させる。
 互いの息がかかる距離に、ポリーヌの顔がある。可愛い唇、すべすべした頬、泣きぼくろ。全てが間近にあった。人間と同じ上半身はとても柔らかく、蛇体も優しく締め付けてくる。

「朝はこうやって……体を温めたいんです」

 俺に巻き付いたまま、ポリーヌはベッドに倒れ込む。柔らかな毛布が俺たちを受け止め、二人揃って寝転がった。

「さあ……目を閉じて、一緒に深呼吸しましょう……」

 魔性の声に操られ、言われるままに目を閉じる。彼女の呼吸音に合わせて息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。彼女の息も吹きかけられて、体から力が抜けていく。

「フィルマンさんの腕……私を抱きしめたまま、離れなくなっちゃいますよ……」

 深呼吸の合間にポリーヌはささやいた。

「ほら、ぴったりとくっついて……もう離れなくなりました……」

 離れない……離れなく……。
 俺の手はポリーヌの背中に
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