日の国ジパング・黒垣藩。
この国でも特に人と妖怪の境が薄いこの藩では、朝から妖女たちの朗らかな声がする。長屋の井戸を囲んで談笑するのは腹の大きくなったネコマタと、目を輝かせて彼女の話を聞く新妻の雪女。二人の話に笑いながら茶々を入れているのは人間の老婆だ。やがて棒手振りと呼ばれる行商人達が豆腐や青物を担いでやってくると、器を持った女房や子供たちが呼び止める。長屋の陽気な朝だ。
そんな中、長屋の一室で奮闘する一人の少女がいた。
「にいさまー。あさですよー?」
布団の上に乗り、寝ている若者をゆさゆさと揺する小さな少女。よく晴れた朝にも関わらず、彼女の体は豪雨の中で数刻立ち続けたかのようにずぶ濡れだった。身に纏う服は透き通るような青白い肌にべったりと張り付き、髪は中程からどろりと液体状になって背中をぬらぬらと流れている。布団の上に染みを作りながら、体を一杯に使って若者の体を揺さぶると、やがて彼が身をよじった。
目が開くのを見ると、少女はにこりと笑って彼の上から降りる。そして若者が欠伸をしながら身を起こすと、三つ指をついて頭を下げた。
「おはようございます、にいさま」
「……おう」
青年……鳶職の弥三郎は眼を擦りながら、もぞもぞと布団から身を出した。この国の人間らしい小柄な体躯ながらも筋肉はついており、顔立ちもそれなりに整っている。
びしょ濡れの少女はにこりと微笑んで立ち上がり、火のくべられた土間の竈へと向かう。手際のいいことにすでに米を炊いていたようで、釜の蓋を取ると熱々の飯を茶碗によそった。弥三郎の好きなお焦げをこそげ取り、たっぷりと盛りつける。自分用の食器にもよそい、キュウリの漬け物を添えて居間に運ぶと、弥三郎が即座に箸を取った。
飯の匂いで眠気も吹き飛んだのだろう、いただきますと叫んで白米を掻き込む。思ったより熱かったのか、顔をしかめて漬け物を口に含み、ゆっくりと飲み下した。
「ふぅ。今日の飯は大根が入ってるのか」
「かてめしです。おたつさんにおそわりました」
「あの婆もいいことするな。しっかし生まれて一月も経たねぇのに、できた子だよお前ぇは」
弥三郎が褒めると、少女は青白い頬をほんのり赤らめて微笑み、自分も白米を頬張った。
この二人は町でも名の知れた兄妹である。弥三郎は頭は悪いが正義感が強く、度胸は人一倍という典型的な黒垣っ子。キユは幼いながらも献身的に家事をこなすぬれおなご。無論、本物の兄妹ではない。ぬれおなごは知能こそ低いものの、夫に誠心誠意尽くすという本能が備わっており、キユは早い内に運命の男性と巡り会ったというだけだ。とはいえ雨の中で夫を待つぬれおなごの特性からすると、キユと弥三郎の出会い方はかなり数奇なものだったが……。
あっという間に茶碗は空になり、キユは残りの飯を握り始める。弥三郎も着替えて仕事着の印半纏を羽織ると、楽しそうに握り飯を作るキユの姿を眺めていた。小さな手で小さな握り飯をいくつも作り、塩を振って包む。弁当を作ってくれる家族のありがたさを弥三郎はしみじみと感じていた。
だが突如、この朝の団らんに水を差すかのような声が聞こえてきた。
「火事だ! 火事だぞー!」
弥三郎は弾かれたように立ち上がった。草履を履き、壁に立てかけてあった鳶口を片手に部屋から飛び出す。
騒いでいる女房衆の視線を追うと、それほど遠くない所から煙がもうもうと立ち上っているではないか。
「ひゃあ、あんな近くで燃えてやがる! キユ、危ねぇからここで待ってろ!」
井戸水を汲んだまま固まっている雪女から釣瓶をひったくり、頭から水を浴びて走り出した。長屋の住人たちが「頑張れ弥三郎!」「黒垣一の町火消し!」などと囃し立てる中を颯爽と駆けていく。
「……にいさま」
握り飯の包みを手にしたまま、キユは弥三郎の背を複雑そうな表情で見ていた。知能の低いぬれおなごに複雑な感情などないはずだが、その顔は一概に「哀しそう」「寂しそう」などとは表現できなかった。
ジパングの都市は木造家屋が密集しているため、火災の際には家屋を解体して延焼を防ぐ『破壊消防』が主流である。勿論水神の加護が厚い地域はその必要も少ないが、この黒垣藩では建築の専門家である鳶職が町火消しを組織しているのだ。
弥三郎が名の知れた男になったのも火消しの業績による。二十日ほど前に近くの質屋で火事があったとき、彼は焼け落ちる寸前の家に飛び込み、取り残されたぬれおなごを助け出そうとした。しかしすでに虫の息であった彼女から生まれたばかりの娘を託され、弥三郎は悔し涙を流しながらも幼い娘を炎から救いだしたのである。そしてその後、娘を自分の元で育てると言い出した。この武勇伝はその日のうちに瓦版に載り、母親の方を救えなかったことへの男泣きと相ま
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