真っ二つに折られた剣を握り、僕は地に膝を着いていた。煌びやかな戦衣も土に汚れ、呼吸も乱れ、満身創痍というに相応しい状態だっただろう。歯ぎしりをする度に、口に入った土のジャリッとした感触が苛立ちを強める。しかし一番の悔しいのは目の前に立つ魔物の、涼しげな笑顔だった。
白い手で折れた刀身を拾い上げ、魔物は関心したような声を上げた。ただ美しいだけではない。なめらかな肌、顔の造形、全てが男を惹きつけて止まない魔性の美貌を宿していたのだ。蝙蝠のそれを思わせる翼、先が鏃型をした尾、血のような赤い瞳が刀身を見つめ、最高級の絹のような白髪が風に靡くあの光景は、今でも脳裏に焼き付いている。そして鏡のような刀身に映るのは、屈辱に満ちた僕の顔。故郷を飛び出し、勇者として訓練を積んできたにも関わらず、目の前の魔物にあっけなく叩きのめされた自分への怒りだ。
「なかなかの剣ね……まだ繋げる。ねえ、この剣をくれたら可愛い魔物を紹介してあげるよ?」
「っ! ふざけるな!」
叫びざま、脚に全身の力を集中させ、どうにか立ち上がる。折れた剣の柄を捨て、腰の短剣を抜いたものの、手に思うように力が入らなかった。構えさえ取れずに、ただ敵を睨みつけるしかない。
その魔物は魔王の娘・リリムの一人。あまりにも美しく、花櫚で、邪悪な存在。僕が相手をするには荷が重すぎる相手だった。しかもそいつは本来戦うはずだったリリムより、ずっと格下だと自称していたのだ。
「貴方じゃレスカティエに辿り着いても、姉上を倒すのは無理」
僕を見下すでも嘲るでもなく、諭すような口調で彼女は言った。その表情に教団の喧伝する邪悪な面影は無く、ただの優しい少女の顔だった。赤い瞳さえ、何処か紅葉した楓や夕日を連想させる、柔らかな赤に見える。だが僕にとってはその優しげな雰囲気さえも、そんな少女に敗れたという屈辱を増加させるだけだった。
「わたしの姿を見て魅了されかかったのに、すぐ正気を取り戻したのは大した物だけどさ。だから尚更、教団に帰しちゃうわけにはいかないけど」
すっと懐に手を入れ、彼女は黒く小さな何かを取り出す。服の襟から開けた胸元に伸びる金の鎖に、漆黒の懐中時計が繋がっていた。僕の攻撃など余所見していても避けられるとばかりに、蓋を開けて文字盤を確認した。
「……そろそろ、貴方の仲間はレスカティエに着く頃ね。あのジパング人の退魔師なら、姉上の所まで行けるかも……んふふ」
白い歯を見せ、魔物の王女は妖しく笑った。
「でもね、貴方たちは姉上には勝てない」
「黙れ!」
僕は力の限り叫んだ。喉が痛むほどに。もうまともに動くのは舌しかなかったから。
「黙れよクソ女! ダサイ時計持ちやがって、偉そうなこと言うな!」
その時、僕は自分の行動が誤っていたことに気づいた。リリムの慈しみさえ感じる美しさが、身に纏う柔らかな気配が一変したのだ。花のような笑顔、慈愛と妖艶さを秘めた瞳が、氷のような無表情、刺すような眼光へと変貌した。一気に肝が冷えた僕に、彼女は口を開く。
「……この時計が……どうしたの?」
ぞっとするような、抑揚の無い女の声。情けないことに、僕の膝が笑い始めた。いや、あの状況を考えれば当然かもしれない。貶してはいけないことを貶し、怒らせてはいけない相手を怒らせてしまったのだ。
それにも関わらず、僕の口は勝手に言葉を紡いだ。
「なんだよ……その安そうな時計がそんなに好きなのかよ!」
「聞かなかったことにしてあげようか?」
少し強い語気で放たれたその言葉は、あのリリムの最後の慈悲だったのだろう。だが僕は『勇者』……魔物から情けを受けることを、ちっぽけなプライドから拒否したのだ。そして犬にでもくれてやればよかったそのプライドは、彼女を決定的に怒らせる言葉を口にしてしまった。
「どうせ魔物の色香に惚けた、ろくでなしのクソ野郎が作ったガラクタだろ!」
次の瞬間。
僕の体が宙に浮いた。腹に加わった衝撃で、胃液が口から溢れる。そのまま重力に従い落下、地面に背中を打ち付けた。一瞬のことで状況が飲み込めなかったが、赤い瞳が間近に接近し戦慄してしまう。身を起こそうにも、痛みで体に力が入らない。
ふいに、リリムの周囲に黒い靄のようなものがぼんやりと浮かび上がった。不定形のそれはぽつぽつと数を増やし、より濃厚な黒になっていく。
「少しからかうだけのつもりだったけど……」
時計を懐に納め、リリムは僕を見下ろしてきた。周囲に黒い球体が漂い、僕を取り囲む。
まるで生け贄のよう……今からこの悪魔の「餌」になるのだという恐怖が、僕の心を支配した。だが体は恐怖に震えるばかりで、脳からの「動け、逃げろ」という命令に全く従わない。リリムの持つ魅了の力が威圧と恐怖に変わり、
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