夜風が通り過ぎていくと、服の左袖がひらひらと靡いた。まるで失った左腕を懐かしむかのように、中身のない袖が揺れている。
この町の月は故郷見たものより、白く澄んだように見える。星の瞬く黒一色の中に、ぽつりと氷が浮かんでいるかのようだ。その下で海が静かに波打ち、夜風が吹きすさぶ。船を浮かべて月見酒としゃれ込みたいところだが、この古都の月夜は見た目ほど美しくはない。
その理由は三つ。まず、この月の下で悪事を働く輩がいること。
二つ目は、それがこの町では普通だということ。
三つ目は……私の足下に、つい先ほど斬り捨てた男が転がっているからだ。
血溜まりを作っているその死体を雇い主に見せれば、数日食べていくのに困らない賞金が出る。逆に言うと、この町では人の命にその程度の値段しかつかない。この町の掟を破りさえしなければ平穏に暮らせるのだが、私のような人間がいくらいても、外からその掟を壊しにかかる馬鹿が後を絶たない。私の足下にいる男はまだ若く、懐からは二組の指輪が出てきた。女がいるのなら、この町で阿片剤を売ろうなどと考えなければいいものを。
「……」
一つ息を吐き、納刀。左腕を切り落とされて以来、この右腕一本で刀を操り、多くの人間を屠ってきた。祖国でもこのエスクーレ・シティでもやることは変わらないが、この悪徳の港の方が私のような人間を必要としている。人斬りが必要とされるなど、本来ならあってはならないことだろうが、それが現実だ。
ふいに、背後から足音が聞こえる。ゆっくりと振り向くと、月明かりに照らされた人影がすぐ近くまで来ていた。
「ご苦労さま、シロー」
「……フランチェスカ殿か」
眼鏡のずれを直し、私は彼女の顔を確認する。いつもと同じダークスーツに身を包み、濃い黄金色の髪が月光に煌めいていた。男にも女にも見える顔立ちに不敵な笑みを浮かべ、歩み寄ってくる男装の麗人。
フランチェスカ・リッピ。この町を牛耳る裏組織・ツェリーニファミリーの幹部だ。
「死体を確認しに来た。野晒しにしておくことになったからね」
「左様でござるか」
恐らく見せしめということだろうが、私としても運ぶ手間が省けて助かる。残酷ではあるが、この男は馬鹿なことをやりすぎたのだ。
フランチェスカは死体をちらりと眺め、内ポケットから小さな瓶を取り出すと、蓋を開けてぐっと飲む。私の国では貴重品の葡萄酒だが、この町の住民は常日頃から愛飲しており、特に彼女はいつでも持ち歩いているのだ。
「報酬は明朝払うよ。今夜は僕からのボーナスで我慢して」
ふわりとした動きで、彼女は私に瓶を差し出す。葡萄酒独特の香りに、一瞬だけ香水の匂いが混じった。ふとした瞬間に香る程度の匂いがむしろ色っぽく、少し意地の悪そうな笑顔にも、どことなく女の色気が感じられた。
「では、ありがたく」
私は半分ほど残っている瓶を受け取り、口をつける。足下に広がる血と同じ色の酒が、なめらかに喉を通っていく。口腔に残る渋みと香りを楽しみながら、すーっと飲み干していった。
この港町……エスクーレ・シティは、豊かな文化と陽気な住民、そして自由貿易で知られる中立都市だ。しかし豊かな町ほど、腐るのも早い。古来より様々な権力者や魔物がこの町を狙い、支配者が変わるたびに町は混乱し、時には汚職の温床となった。住民たちは翻弄されるばかりの日々に嫌気が差し、いつしか団結するようになった。
そうして生まれた裏の共同体を、この一帯では『マフィア』と呼ぶ。彼らがありとあらゆる外敵をエスクーレから駆逐し、殲滅し、時には敵の本拠に乗り込んで制裁を加える。近海の海賊たちを手なずけ、敵に対する防波堤にもしている。表通りを歩く住民の笑顔は、裏社会の鉄の掟によって守られているのだ。
日の国からこの町に流れ着いた私は、そのマフィア……ツェリーニファミリーから仕事を請け負い、賞金稼ぎとして生計を立てている。
「いい加減、僕らの兄弟になったらどうだい? シロー・イバ」
死体の口に石を詰め終えたとき、フランチェスカが耳元で囁いた。
賞金稼ぎではなく、正式にファミリーに入れという意味だ。彼女のみならず、以前から幹部たちに誘いを受けている。待遇は悪くはなさそうだし、私が個人的には彼らを好いているのも事実だ。しかし……。
「貴女方は郷土愛で戦うのでござろうが、拙者は所詮余所者。命がけでこの町を守る気にはなれませぬ故」
「ふうん」
微かに笑みを浮かべ、彼女は私の袖を引く。失った左腕の感覚は未だに残っているが、さすがに触覚は滅びているようだ。
だがその時、私は心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。袖を掴むフランチェスカの手が、私を見つめる紫色の瞳が、端の持ち上がった口元が、その鼓動を早めていく。顔が熱くなり、体中が何
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