小鳥の囀りと、風で揺られる木々のざわめきだけが聞こえる世界。
木漏れ日が作る光の模様を楽しみつつ、俺は山ブドウを採る。故郷で貧乏暮しをしていた頃、口にできる甘いものと言えば、自生しているこれだけだった。ルージュ・シティに移り住んでから、ケーキだのチョコレートだのも買えるようになったものの、この山の恵みは未だに好物だ。それ以上に、森へ来ることで自分たち人間もまた『動物』であることが実感できる。ここで多くの生き物が産まれ、生きて、殺し、産み、また殺される様子を見ていると、家畜の屠殺解体を生業とする俺達が、生物として自然な存在だと自覚できるのだ。
一粒抓んで食べると、爽やかな甘みと酸味が口に広がる。ある程度採ったら、次の場所へ移動しなければならない。山の恵みは無限ではないし、ここに住む鳥や魔物の食糧でもあるのだ。この辺りに凶暴な魔物はいないが、山を荒らせば容赦のない制裁を受けるだろう。そしてそれは当然のことだ。
ふいに、鈴の音が聞こえた。小鳥や虫の声とは違う、明らかに人工物の奏でる金属音だ。茂みを掻き分ける僅かな音と共に、軽やかな鈴の音が近付いてくる。俺が身につけている熊避けの鈴とは違った、か細い音である。
‐‐あいつか。
歩行に合わせた鈴の音と共に、その主が生い茂った草木を掻き分けて姿を見せた。
濃緑の被膜と甲殻を身に纏った、すらりとした体型の女。鳶色の瞳と、同じ色の『複眼』を側頭部に持ち、その更に後ろには一対の触角が生えている。何よりも特徴的なのは両手首から伸びる、折りたたまれた長い刃物。凍ったような無表情と相まって、近寄りがたい迫力を生み出していた。それを除けば……否、それを含めて彼女はとても美しく、凛とした佇まいをしている。
だが男として、目が行ってしまうのは被膜に覆われた胸と、むき出しのふとももだった。指先までを覆っている濃緑色の被膜は彼女の股間辺りで途切れており、眩しいほど白いふとももが完全に露出しているのだ。動きやすさを重視しているのだろうが、こんな森の中でよく傷つかないものだ。魔物の魔力によるものか。
鈴の音は彼女のこめかみに付けられた、髪留めの鈴だった。山へ入ると時々、この魔物が鈴の音と共に現れる。マンティスと呼ばれる昆虫型の魔物で、その名の通りカマキリの特徴を持つ。しかし遭遇しても、それでどうなるということではない。マンティスは魔物に珍しく人間には無関心で、偶然出会っても自分に無関係な存在として無視するのだ。人間を「食えない動物」と認識し、脅威にならないなら関わらないということだろう。
だから今回も、俺の横を素通りしていくはずだった。肉食であろう彼女にとって、俺の持っている山ブドウは興味の範疇にない。しかも彼女は左手に、首の無くなったウサギの体をぶら下げてる。茶色い毛に血が付着しており、少し前に彼女が仕留めたということは間違いない。立派な夕食がある以上、俺がそれを奪おうとしない限り、このまま巣へ戻るはずだ。
しかし。
いつもと違い、彼女は俺をじっと見つめてきた。目の前にある邪魔な蔓を鎌の一振りで切り捨て、ゆっくりと歩み寄ってくる。鳶色の瞳が、美脚が、次第に近づいてきた。だがそれらに見とれるよりも、危機感を覚えるのが当然だ。籠を置いて身構えた俺に対して、彼女もすっと腰を沈めた。
彼女の手から、ウサギの体が滑り落ちる。夕食を一度置き去りにして、俺に意識を集中させるとは。
しかも、彼女は閉じていた両の鎌を開き、合掌して拝むような姿勢で構えをとる。明らかに、狩りの姿勢だ。
「……俺が、何かしたか?」
念のため尋ねてきても、返ってきたのは無表情と沈黙のみ。鎌をかざし、左右にゆらゆらと揺れる姿はまさしく、獲物を狙うカマキリだった。
先に述べた通り、俺の仕事は家畜の解体であって、戦闘など専門外。喧嘩は強い方だが、魔物とやり合えるほどではない。ましてやマンティスは「森のアサシン」と呼ばれる魔物のハンター。何が彼女の気に障ったのか分からないが、目を付けられた以上逃げるのは不可能だ。
「できれば、見逃し……」
駄目元で説得しようとした瞬間、彼女は動いた。
身を守ろうと咄嗟に突き出した腕が、彼女の右の裏拳で下に向けて押さえられる。
さらにその手が俺の胸に向けられた。
次の瞬間、鈴の音と共に天地が逆転した。
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられ、背中から衝撃が伝わった。咳が出る。
脚を俺の背後に差し込み、それを支点にして一気に押し倒してきたのだ。未だに胸を押さえつけられ、苦しい。
無様に仰向けに倒れ、咳き込む俺を、マンティスは相変わらずの無感情な目で見下ろした。東方の国に『蟷螂の斧』という言葉があることを、ふと思い出す。カマキリが勝てもしない相手にさえ鎌を振
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