「ひっく……おかわり!」
「お客さん、もう止めた方がいいですよ」
グラスを突き出すと、店員の少年にやんわりと言われた。私はふーっと息を吐き出し、空のグラスをぼんやりと眺める。
町はもう日が暮れている。この料理店が最も賑わう時間で、現に小さい店の中は大勢の客でごった返している。町で最も評判の良い料理店の一つだが、質素でこじんまりとした見た目で、誰でも気軽に入れる印象も人気の理由だった。様々な仕事や身分の人々が訪れ、思い思いに雑談できる場でもあるのだ。
だから当然、いつも店の中は活気にあふれているのだが、今回は逆だ。どんよりとした重い空気が、客たちの心に圧し掛かっている。そして、その空気を作っているのが自分だということも明らかだ。
「ってか、なんでノンアルコールのカクテルでそんなに酔えるんですか?」
「うるひゃい! 何で酔ってもええやろ!」
ただの甘い炭酸水に、ホルスタウロスという妖怪の母乳を足しただけの飲み物。本来精力増強の効果はあっても、酒精は含まれていない。しかしそんな飲み物で無理矢理酔いたくなるほどに、私の気分は尖っていた。真水を出されても酔っぱらえる自信さえある。
店の雰囲気を悪くしているのは分かっていても、この感情はどうにもならない。あれだけ尽くし、絆が芽生えたと思った矢先に拒絶され、差し出した手も振り払われ……女としては落胆の極みだった。彼を止められなかった自分にも腹が立つ。あのような満身創痍の状態で、憑かれたように仕事にかかろうとする姿は、最早人間にすら見えなかった。すでにインキュバス化しているとかいう問題ではなく、形容しがたい気迫があったのだ。誰かが彼に呪いをかけたのだと言われても、私は驚きはしないだろう。
「あの裁縫狂い……何を考えているんだか」
私と同じ円卓に座る、エーリッヒさんとリウレナさんもため息を吐く。周囲からも時々、私への憐れみやオーギュさんへの怒りの呟きが聞こえてきた。
‐‐ウチ、何がしたいんやろ?
幼いころから神社で学んだ東方医学を、異国の地で役立ててみたい……そんな思いから、身一つで日の国を飛びだした。このルージュ・シティで暖かく迎えられ、鍼灸と指圧で住人達の病を治し、感謝の言葉をもらい満足していた。そんな時、好みの精に釣られてオーギュさんを襲い、なんとか彼を振り向かせようと押しかけ女房を始め……今、料理屋でやさぐれている。
行き当たりばったりじゃないか。こんなことなら、祖国で大人しくしていればよかったとさえ思う。オーギュさんの味を知り、求めてしまった以上、もう嫌でも彼のことを考えてしまう。妖怪の、哀しい性だ。
オーギュさんは……私がいなくなっても、何とも思わないのだろうか?
そんなことを考えた時、店の扉につけられた鈴が、涼しげな音を立てた。店員の挨拶と軽快な足音が聞こえる。
「あらら、何なのこれ? ここは負のオーラを出すような場所じゃないのよ?」
今の状況だと頓狂に聞こえる、女の綺麗な声。澄み切ったその声だけで、重い空気の中に風が吹き抜けたようにさえ思えた。その声の主は足取り軽く近づいてきて、私と同じ円卓の、空いた席に座る。目をやるまでもなく、最初にオーギュさんと出会った時工房に来た、あの白い淫魔だと分かった。
彼女は最近、この町やその周辺をぶらぶらと歩いているらしく、時々この店の軒下で野宿しているところを見かけたこともある。しかし何か、普通の淫魔と違うような、高貴な気を身に纏っているのだ。思わず顔を上げ、姿勢を正してしまうような。
「苦労してるみたいね?」
「……あんたには関係ないやろ」
そう言ったものの、私は心の内を吐きだしたいという衝動に駆られていた。彼女の優しげな、甘えたくなるような声がそうさせているのだろうか。
店員に料理と葡萄酒を注文し、彼女は赤い目でじっと私を見ている。普段なら血を連想させるような赤が、不思議と夕焼けの穏やかな色に見えた。
「……もう、訳分からんわ」
ぽつりと、言葉が漏れた。堰の一か所に穴が空き、せき止められていたものが流れ出て行く。
「寝ても覚めても、仕事のことばかり……なんであんな命がけで服を作らなアカンのや。なんであんなに一生懸命なんや……」
空いた穴がどんどん広がり、心の中から愚痴が流れ出て行く。全て吐き出せば、楽になりそうな気がした。そして吐きだしているうちに、それでも自分がオーギュさんを愛していることを実感する。
最初は稲荷好みの精に釣られただけ。しかし工房に行って身の周りの世話をし、時折夜を共にしているうちに、彼の様々な要素に魅かれていった。あの顔の痣も、ハサミを握る掌も、職人としての誇りに満ちた眼差しも、稀にほんの少し見せる笑顔も、私は全て好きだったのだ。それだけに、彼が私
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4 5]
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録