私の祖国を含む東方諸国には、『正気』と『邪気』という考えがある。邪気とは病気の元となる存在や、気温の急激な変化など人体に悪影響を及ぼすもののこと。そしてそれに対する抵抗力や自然治癒力が正気だ。人間の場合、正気を生む要素は『気』『血』『津液』『精』の四つ。そのうち精は今の世界において、我々妖怪と人間を繋ぐ重要な要素でもある。
人間の精を活力源とする種族が魔王に即位した今、全ての妖怪が人間の男から精を受け取るようになった。人と妖怪が男女として互いに求め合い、体の交わりを通じて精と妖力を交わらせ、絆を深めあうのだ。
だから異国の町の往来を歩いていたとき、ある店から感じた精の気配に、私は敏感に反応した。虫を呼ぶ花の香りのように、気がつくとふらふら吸い寄せられてしまうほどの甘美な気配。文化交流のためこの町に来てから、初めて感じた素晴らしい精だ。祖国でもこれほどに私を惹きつける精の持ち主は見たことがない。
不思議なのは往来を通る他の魔物たちが、この精に気づきもしないということだ。私は精を察知するのが得意な方だが、これほどまでに魅力的な精なら誰でも‐‐もちろん魔物であれば‐‐気付くだろうに。
店の看板を見ると、整った字で『リベルテ紳士服工房』と書いてある。仕立屋のようだ。
‐‐どないな殿方がいらっしゃるんやろ……
そう思うと、体が熱くなり始めた。精の気配だけで、ここまで私を高ぶらせる男性がいるのか。
種族として理性的な私も、妖怪は妖怪。直に会ってみたいという衝動を抑えることなどできず、扉に手をかけた。
そして。まだ新しい扉は静かに開き、私の視界に店内の風景が広がった。内装は至って単純で、中央の作業台の他、マネキンや生地の入った棚が数カ所に置かれているだけだ。
しかし私の目を引きつけたのは、作業台に取り付いて布を裁断している一人の男だった。顔の造形は整っているが、額の左側から頬にかけて醜い痣で覆われており、お世辞にも美しい容貌とは言えない。子供が見たら泣き出してもおかしくないだろう。だがその目つきの鋭さは尋常ではなかった。眼鏡のレンズの向こうで、灰色の瞳が射るような光を放っているのだ。あれで見つめられたら、どうなってしまうのだろうか。着ているシャツの白さまでもが、凛々しさを引き立てているかのようだった。
彼の握るハサミが、軽やかな音を立てて布を切り裂いていく。ただの薄い布地が素早く切り裂かれ、服を構成する部品となっていった。それらを見つめる彼の視線は、どんな僅かな狂いも許さないと言っているかのようだ。
思わず唾を飲み込み、尻尾の毛を逆立たせ、私はその姿に見とれていた。だが話しかけることはできない。彼は今、鬼になっているのだ。ただただ、服を作ることに熱中している。彼の精が、気が、ハサミに宿りうねっているかのようだ。剣舞の達人のごとく、つけ入る隙など一切無い。
次から次へと白い布が裁断されていき、袖や裾などの原型ができていった。ひとしきり終わると、彼は切った生地を眺め、ふっと息を吐いた。相変わらず鋭い目つきの無表情だが、どこか快楽に酔っているようにも見える。部屋を包んでいた緊張感が解け、ふと彼が私に目を向けた。
「……ご用件は?」
「え、あ、ああ、ええっと……」
しどろもどろになる私を、彼はあの目線でじっと見つめていた。人と魔物が共存するこの町でも、日の国の妖怪は珍しいはずだが、特に私を見て驚いた様子は無い。心臓の鼓動が高鳴っていく。彼の精の気配は相変わらず私を酔わせ、自慢の白い毛並みが真っ赤に染まるかと思うほど高揚してしまう。
「う、うち、日の国の狩戸藩から来た、紺いいます!」
「……オーギュ・リベルテ。ご用件は?」
目つきに似合う、低く重い声で問いかけてくる。私はふらふらと、夢遊病患者のように彼に近づいてしまった。
‐‐アカン。アカンのは分かるんやけど……
怪訝そうな顔をする彼に、一歩、二歩と近づいていく。そして彼が後ずさったとき、反射的に手を伸ばし、彼の肩を捕まえてしまった。
その瞬間、理性が弾け飛んだ。振り払おうとする彼の腕を強引にねじ伏せ、体ごと抱きつく。最高の精が、気が、私の間近で脈打っている。最早抑えなど効かず、妖怪としての獣欲に身をゆだねた。
「ふふ、オーギュはん……」
「おい、お前!」
引き離そうとしてくるオーギュさんも、稲荷である私が妖力を込めてねじ伏せればどうということもない。そのままじりじりと壁に追いつめ、体重をかけて押さえつける。
ついでに、四本ある尻尾を彼の体に擦りつける。毛先を使い、シャツ越しに脇腹辺りを愛撫してみると、くぐもった声を出して身を捩じらせた。それが可愛くて、尻尾の届く範囲を順番にくすぐっていく。逃がさないよう、しっかりと捕まえたまま。
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