「お客さん、閉店ですよ?」
夜も深けた店内。
テーブルに突っ伏した女性の肩を揺するが、一向に起きる気配が無い。空になったワイングラスに手をかけたまま、口端から涎まで垂らして気持ち良さそうに眠っている。その容姿は「端麗」の一言で、純白の長髪をポニーテールにまとめ、同じく白磁のような肌と翼が神々しいほどの美しさを持っていた。後頭部から前に向かって生える黒い角まで、奇妙な色気を放っている。そんな綺麗な人がこんなにも無防備な体勢でいるのだ。俺にすでに好きな人がいなければ、我を忘れて襲ってしまうかもしれない。何か魔力が滲み出ているような、特別な美しさだった。
「ほら、お客さん」
「……んふふ。デル姉のおっぱい、柔らかぁい……」
……何の夢を見ているのか分からないが、まあサキュバスの見る夢なんて大体決まっている。魔物にあまり詳しくない俺でも、そのくらいは予想がつく。
若干顔に血が上ったとき、キッチンから店長と奥さんが顔を出した。
「まだ寝てるのか?」
「はい、ちっとも起きる様子がないっす」
店長はため息を吐いた。
最近よく来るお客なのだが、酒を飲んでそのまま寝てしまったり、翌朝には店の前で大の字になって寝ていたりする。それでいて、起きているときの仕草はいかにも優雅で気品があり、身分の高い悪魔のようだ。分かるのは世界中を旅して回っているらしいこと、そして領主の知り合いらしいということくらいだが。
仕方なく、店長はカウンターに置いてある水差しを手にした。夢を見続けるサキュバスの尖った耳に、注ぎ口をあてがう。
「みぎゃ!」
水を注がれた瞬間、サキュバスさんは奇声を発して飛び起きた。耳を袖で拭いて、辺りを見回す。続いて懐から、黒い円形の物体を取りだした。懐中時計だ。黒い外装と金色の鎖が、白い手によく映えている。
彼女は赤い瞳で文字盤を見つめた。今何時なのか理解したらしく、時計を懐に収め……
再びテーブルに突っ伏そうとした。
「こらこらお客さん、もう閉店なんだから」
「むー、ここのテーブル、寝心地いいんだけど……」
サキュバスさんは口を尖らせる。水の効果で酔いは覚めたらしいが、あくまでもとぼけた女性だ。
「うちは宿屋じゃないし、ましてやテーブルは寝具じゃないっての。ほら、帰りなって。今日はこの青二才の人生相談を聞いてやる予定なんだから」
店長の言葉に、サキュバスさんは「ふむ」と呟いた。ゆっくりと立ち上がり、俺に顔を近づけてくる。
「な、なんです?」
「……デュラハン?」
不意打ちとも言えるその言葉に、俺の心臓がドキリと鳴った。しかもそれは表情に出てしまったらしく、サキュバスさんはしたり顔で微笑む。
魔法か何かだろうか。魔物なら人の心を読むくらいの魔法を使えるかも知れない。だとしたら大変だ、俺の恥ずかしい記憶なども全てこの場で解剖されてしまうかもしれない。
しかし、それは杞憂だった。
「んふふ、わたしね、鼻が利くのよ。貴方から料理のニオイに混じって、ほんの少しだけデュラハンのニオイがする」
「ははあ、最近ドジ踏むことが多い理由は、恋の悩みってわけか?」
「わあ、し、シャルルくんにも好きな人がいるんですね〜」
店長はニヤニヤしながら、奥さんは目を輝かせながら、俺に顔を寄せてくる。何なんだこれは。
「ほらほら、お姉さんたちに話してみなよ?」
「そうだぞ、こういうのは年長者に聞くのが一番だぞ」
「わ、わたしもお手伝いしますよ〜」
……こういう大人って苦手だ。
俺が彼女……レイチェルに出会ったのは、この店で働き始めた日のことだった。俺が給仕をしていたときに店に来ていた彼女が、シチューの熱さに慌てて水を飲む所を見てしまった。その歳、俺と目が合った彼女は恥ずかしそうに顔を背けたのだが、俺はそれがかなり可愛いと思ってしまったのである。凛々しくてカッコいい女の子などと褒めておいて何だが、可愛いものは仕方が無い。
その日はただそれだけだったが、次の日町中で偶然出会って雑談した。初対面時の出来事のせいか、多少高圧的だった彼女だが、話しているうちに笑顔を見せるようになってくれた。反魔物領で暮らしていた俺からしてみれば、彼女が人間と大して変わらない姿で付き合いやすいと思ったのも確かだ。そして溌剌とした性格と、時々見せる可愛い一面に、俺はどんどん魅かれて行ったのだ。
しかし、俺は自分が彼女と釣りあうとは思えなかった。故郷で食い詰め、商船に密航してこの町に流れ着き、運よくこの店に雇ってもらえたこの俺が、家柄も精神も立派な彼女に「好きだ」なんてとても言えない。彼女が俺を好きになってくれるとは思えないのだ。
だが、諦めたくはなかった。彼女が卵料理が好きだと知った俺は、弁当を作って持っていくことに
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